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サークル活動のすすめ方 2 0203
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●目次●
11 読書会の開き方
12 レジュメの作り方
13 会員レポートによる学習
14 実践報告の書き方
15 原稿の書き方
16 予言者故郷に入れられず
17 他のサークルとのつきあい方
18 仲間とのつきあい方
19 耳からも学ぶ
20 思想的潔癖さ
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◆読書会の開き方◆
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★読書会の利点★
サークルの学習には「読みあう」という一種の読書会的な方法がある。教材
となるテキストを元に、みんなで学習する方法である。
この学習方法には次の二つの利点がある。
教育という知的作業における「知の獲得」は、多くの場合、書籍を媒介にお
こなわれている。「書物から学ぶ」ことは欠かせない知的作業である。その証
拠に、教師自身が、毎日、教科書という本で、子どもたちに教えているではな
いか。だから、教師自身も、教えるために、書物から学ぶのである。
もうひとつは、本からの学び方を学ぶためである。みんなでひとつの本を読
みあうことで、本の読み方を学ぶことができる。
読書会で、仲間の読後感を聞いていると、「なるほど。そう読むのか」「こ
こはそういう意味だったのか」「そこは気がつかなかったなあ」と、感心する
ことが多い。他の人の読み方に触れると、いかに自分の読み方が浅薄だったか、
読み落としていたか、恥ずかしくなることが多い。そうした経験のなかで、本
の読み方を学び、本から学ぶ能力を身につけていく。
本が読めるようになると、レポートも読めるようになり、実践分析も的確に
できるようになる。
以上の利点があるが、このごろ、教師が本を読まなくなったといわれている
だけに、本の魅力を交換しあう読書会は教師の成長にとって、欠かせない活動
であろう。
サークルは、いろんなことをするが、その活動の四分の一くらいは読書会に
割くべきだろう。
では、どのように読書会をすすめるか。
★読書会の開き方★
まず、どう組織するかである。
1 サークルの全員を対象に実施する場合。
例会のなかに読書会をプログラムする。「次の例会は『生活指導入門』の本
をテキストに学習します」というようにである。どういうテキストを取り上げ
るかは、会員の希望を聞いてきめる。
2 希望者を募っておこなう場合もある。
「こういうテキストで読書会をするので、希望者は参加してほしい」と呼び
かけて実施する。「この指止まれ方式」で、サークルのなかに、読書を目的と
した小サークルをつくるという方法である。
ただし、民主・公開の原則にのっとり、いつでも、だれでも参加できるよう
にしておかないと、フラク活動(フラクション活動の略。分派活動)になって
しまうので、要注意。
★どんな本(テキスト)を選ぶか★
1 どのように本(テキスト)きめるか。
@ 参加者の合意によってきめる。これが原則である。
A ふつう、サークルでは、会員のレポートを元に学習することが多い。
しかし、それだけでは「はいまわり主義」になって、現実に呑み込まれ
たり、「井のなかの蛙」になってしまうので、ときに、サークルの外
にある論文や実践記録を取り上げるようにする。
2 本を選ぶときの留意点。
@ 専門サークルの場合。
その専門に関係した本を選ぶことが多い。生活指導サークルなら生活指
導に関係した本を選ぶというようにである。
ただし、読書会には、「みんなで読む」ほかに「新しい参加者に読ませ
る」という目的がある場合もある。
ところが、教育研究団体には、その専門性が求める必読文献があるから、
新しい人にも読んでもらおうとして「入門講座」にかえて、その文献を
テキストに読書会を開くことがある。
その意図はいいのだが、難しい本を選んで、新しい参加者に「とてもつ
いていけない」と嘆息させることのないよう留意したい。難しい必読文
献の読書会は、先の「この指止まれ方式」で実施するとよいだろう。
とくに、民間教育研究団体の場合、その研究は何十年という積み重ねが
あって、研究レベルは高い。ちょっと触れただけでは新しく参加した人
の理解の及ばないこともある。また、用語も独特だったり、うちうちの
言葉を使ったりして、違和感を与えることも少なくない。したがって、
どういう文献を取り上げて読書会を開くか、慎重な配慮が求められよう。
A 多目的サークルの場合。
会員の希望を聞きながら「今回はこの本にしよう」ときめる。この場合、
とくに、年令の若い人の要求を重視すべきだろう。
B 読書を目的とするサークルの場合。
会員の要求を調整しながら取り上げる順序をきめ、その計画にしたがっ
て実施する。
3 テキストに選びたい本。
サークルの読書会ではどういうテキストを選ぶとよいのだろうか。
@ まず、短いものがいい。
読書会のテキストというと、一冊の本がイメージされるが、雑誌の巻
頭論文だけを取り上げることから、数巻にわたる全集を取り上げる場合
もある。
しかし、地域の小サークルの場合、多忙ななかでの読書会なので、機関
誌のなかの一編というような、短いものを取り上げるとよいだろう。あ
まり欲張らないことである。
正式な読書会では、参加者はあらかじめテキストを通読してくるのがセ
オリーだが、多忙生活のなかにある教師は、なかなかできない。読書会
の場で読みながら参加することが多い。そのことも視野に入れて、短い
時間で読めるような短い論文なり実践記録をテキストにするとよいだろ
う。
A 一冊の本を取り上げる場合。
しかし、どうしても一冊の本を取り上げたいというような場合、どうす
るか。たっぷりと時間をとって読書会を開けばいいが、それはなかなか
できないだろう。そこで、次のように工夫する。
a 日程を分割する。「5月例会では一章」「六月例会で二章」という
ように、章ごとに分割して順次取り上げていく。
b 話題提供者を分割する。あらかじめ「一章は山本さん、二章は遠藤
さん、三章は木田さん」というように、章ごとに話題提供者をきめて
おいて、当日、発表してもらう。
こうすると、読書会というより読書紹介の会になるが、全部を読んで
きて参加した人、少しだけ読んできて参加した人、読んでこなかった
人にとっても、それぞれ満たされる読書会になる。
c 一冊の本のなかから「重要な章」を選んでテキストにする。そのほ
かの章はそれぞれの関心にしたがって読んでほしいとする。
★なるべく論文をとりあげる理由★
4 なるべくなら論文がよい。
テキストは「論文」がいいか「実践記録」がいいか。むろん、参加者の要求
できめることになるが、サークルの読書会では、なるべく論文を取り上げるよ
うにしたい。なぜなら、そのほうが早く力量がつくからである。
孫子の言葉に「理より入るもの上達早く、鍛練より入るもの上達遅し」とあ
る。「理」とは理論である。「鍛練」とは「実践」である。理論を学んで実践
するほうが、実践した後に理論を学ぶものよりも、ずっと上達が早いというの
である。
この孫子の言葉は日本では剣客の間に伝播し、この言葉によって剣を磨き
達人になった武士が多い。
このことは、スポーツをイメージするとよくわかる。「理論を学んでから
練習する」「ともかく練習。理論は後」と、どちらの上達が早いか。前者だ、
というのである。日本のスポーツ界は後者に立つものが多い。「スポーツには
理屈はいらない。ただ練習あるのみ。後は根性だ」こんなだから、いつまでた
っても日本はスポーツ後進国から脱出できないのである。
どう練習すればいいのか、これが理論で、理論的裏付けなしに、いくら練
習しても、効果はあがらない。
このことは教育にもいえる。「理より入るもの上達早く」で、理論を学習
すると、教育実践の力量が早く身につくのである。
理論のない教師は闇の中にいるのと同じである。理論を学ぶことは「暗闇」
のなかに光を点すことなのである。
教師は毎日、実践しているが、理論がないと自分の実践を評価できない。
今やっていることの意味や今起こっていることの背景がとらえられない。だか
ら、どうすればいいのかの方針も立てられない。理論を知っていれば、実践を
総括し、なにをしなければならないか、どの方向にすすめばいいのかがわかる。
この「わかる」ということが大切である。たとえ、できなくてもわかって
いることが大事なのである。理論どおりにいかなくても、理論どおりにならな
くても、「こうあるべきだ」ということを知っていれば、いつの日にか、そこ
にいくことができる。あるべき姿を知らなければ永久にそこには辿りつけない
のである。
したがって、若い教師の多いサークルでは、なるべく理論を学習すること
である。
こうなると、「理論は知っているが、実践がともなわない」ことがおこる。
教育研究団体には、そういう「頭でっかちな人」が多いが、それでいいのであ
る。
人間は多かれ少なかれ認識と実践の間に大きな落差があるものなのである。
「わかっちゃいるけど」のなんと多いことか。それが人間である。わかりもし
ないで、ただやっているのは人間とはいわないのである。
そんな意味で、読書会のテキストには「論文」あるいは、「論理」を学習
できる実践記録をお勧めしたい。
★読書会のすすめかた★
次に、どう読書会をすすめるか。
1 「寄せ鍋」方式。
テキストという「寄せ鍋」を真ん中に、参加者がそれぞれつっついて食べると
いう方法。「寄せ鍋」は、鍋のなかから自分の好きなものを選んで食べるよう
に、テキストのなかからそれぞれが好きなものを取りだして、話し合うという
方法。
読書会を目的としたサークルで多く用いられる方法である。そのためには
「寄せ鍋」の具が問題で、種類が多くおいしいものがたくさん入っているよう
なテキストでないと、参加者の多様な要求に応えられない。
2 プレゼンター方式。
このごろ、みんなの前で、発表したり提案したり報告したりすることをプ
レゼンテイション(略してプレゼン)というようになり、その発表者をプレゼ
ンターと呼ぶようになった。
最初に、プレゼンターに報告してもらい、その報告を元にみんなで話し合
うという方法である。いちばん多くとられている方法である。
あらかじめ参加者のなかから、プレゼンターをきめておいて、当日、報告
してもらうことになるが、報告というと堅苦しいので「話題提供」というよう
に軽い感じでプレゼンテイションを引き受けてもらうとよいだろう。
ただし、一人でなく二人くらいの複数に報告してもらうと、違った角度で
の話題が提供され、深く掘り下げられた読書会になる。
3 チューター方式。
チューターとは、「研究会の講師」「助言者」をいう。
チューター方式とは、そのことに詳しい専門家を講師・助言者に招いて読
書会を開くという方法である。たとえば、現代教育史の研究者を講師に、「資
料日本現代教育史」をテキストに読書会を開くというように。ただし、この場
合、講師料は参加者の負担になるので、希望者を募ることになる。幹事をおい
て運営する。
最初に、チューターがテキストを解説し、それを元に参加者で話し合い、
指導・助言を受ける。
4 それらの組み合わせ。
2+3の組み合わせが多い。
あるいは、今月のテキストは「寄せ鍋方式」で、来月は難しい本なので
「チューター方式」でというように、状況にあわせて選択してもよいだろう。
★司会者をおくが道草自由★
読書会では司会者をおいてすすめる。ただし、この司会者は飾りのようなも
のでよい。会の順序と時間配分にだけ留意し、あとは、なるべく参加者が自由
に発言できるようにする。
テキストにもよるが、テキストにはいろんな雑片が詰まっている。
あるテキストに「八重子の祖母はよいとまけの歌を歌いながら」という文が
あった。参加者の一人が「よいとまけ」について質問すると、そこから話が広
がって本筋をどんどん離れ、とんでもない方向に逸れてしまったことがあった。
しかし、参加者に大いに満足した。後々の語り草になったほどである。
テキストの主題に関係なく、そのなかにある単語を媒介に「そういえば……」
「今、思い出したんだけど……」「ちょっと話はちがうんだけど…」「関係な
いかもしれないけど……」「ほら、ぼくらクラスにいた………」などと、本筋
に関係のない話が飛びだし、交差し、飛躍していく。
それでいいのである。つまり、少しく集中性に欠けることがあっても、楽し
い雰囲気を大切に、読書会をすすめることである。
★読書感想文の交換★
たびたび読書会が開けないサークルの場合、自分の読んだ本を紹介しあうと
いう「読書感想文の交換」をすすめたい。自分の読んだ本の感想文、読後感、
書評を参加者数分印刷して会場の端に置いておき、ほしい人に持っていっても
らうという方法である。紙面はせいぜいB5くらいの用紙でいいだろう。
参加者の義務にするとわずらわしいから希望者として、書きたい人だけ書い
て置いていくようにする。むろん、参加者はだれでも自由に持って帰れる。
そのさい、書名のほかに、著者名・発行所・定価を付記すると、その感想文
を読んで「わたしも読んでみよう」と思った人の参考になる。
わたしのサークルでやったことがあるが、感想文の提供者がだんだん少なく
なって尻つぼみになってしまった。しかし、提供はできないが、読みたいとい
う要求は強い。身勝手な要求だが、多忙な教師としては許されよう。
本の好きな人はすすんで感想文を紹介したい。そんな奇特な人がいると、読
書への意欲もわいてくるし、文化情報としても参考になる。
ほかに、レンタル・ビデオ情報もいい。感動したビデオ作品を紹介する。あ
るいは、美術館や音楽会にいった感想なども、こうした形で会員に伝えてもい
いだろう。
さらに、「合唱」についての話題が取り上げられたら、合唱の得意な人は、
その参考文献リストを配布するといったサービス活動をしたい。
メンバーがそれぞれの得意分野で文献や資料リストを作成し配布するのであ
る。サークルでは、このようにして、メンバー同士、本に親しみ、文化に親し
む刺激を与えあうのである。文化の香りがしないサークル活動からは成果は期
待できないだろう。
◆レジュメの作り方◆
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★レジュメの必要性★
サークル活動の学習において、話題提供をしたり、問題提起をしたりする場
合、ふつう報告内容の概要をしたためたプリント=レジュメを用意して報告す
ることが、一般化している。
レジュメとは、仏語で「要約」という意味である。発表する内容の概要、あ
らすじを書いたものをいう。
レジュメを用意し、印刷して配布し、それを元に発表するのは、
@ 聞く側にとって、発表内容の理解に便利だからである。口頭発表だと聞
き逃すことがあるが、レジュメがあれば、それを見ながら発表を聞くことがで
き、まとまった情報、整理された情報を受けとることかできる。
A 当日、参加できなかった人に配布し、伝えることができる。
B 発表者に発表する内容を準備させ、整理させることができる。つまり、発
表を聞く側にとって、よく準備された、すじみちの立った発表を聞くことがで
きる。
レジュメは、だれにとっても、利便を与える好ましい方法なのである。
★レジュメの作り方 読書会レポートのレジュメの例★
では、どのようにレジュメを作成したらいいのだろうか。大きくふたつのタ
イプがある。読書会で話題提供したときのレジュメを例にあげて説明しよう。
@ 要約型・抄録型。発表する順序にしたがって、要約した文章で書いてい
く方法。
学級活動シナリオ集 ○○○○○編 民衆社
はじめに
学校五日制により学校行事が圧迫され、消化行事が増えるなか、行事ぎら
いを生み出している。こうした状況のなかでは、学級行事を見直し濃密な行事
を再生することで、自治能力を育て、楽しい学校生活をつくりだすことが求め
られている。
そのためには学級行事の豊かなイメージが必要で、その参考に、このシナ
リオ集が編集された。
第1章 はじめと終わりの学級行事
ここには学級・授業・学級びらきとじまいの会、PTAびらきの会、1学
期〜3学期 までの始業・終業集会などのシナリオが収録されている。(以下
略)
A 列挙型・項目型。箇条書きのように要点項目だけを書いていく方法。
学級活動シナリオ集 ○○○○○編 民衆社
一 本書の意図
1 学校五日制による学校行事の衰退と「行事ぎらい」
2 学級行事の再生によって楽しい学校生活を創造し、自治能力を育てる。
3 学級行事の豊かなイメージが必要…………編集意図。
二 はじめと終わりの学級行事
1 学級びらき。
a 構成力がすぐれている。
体を動かす。飾らぬ自己紹介。写真。一人ひとりへのメッセージ。
b リラックスした雰囲気で「こんどの先生大好き」
2 持ち上がり学級びらき。(以下略)
どちらのレジュメがいいかはひとことでいえない。一般的には「列挙型・項
目型」が多いが、とくに、指定がなければ自分の好きなタイプを選んで作成す
るとよいだろう。
なお、レジュメの長さは、あまり膨大なものや長編は好ましくない。繁雑で、
本そのものを読むことと同じになってしまうからである。発表時間、二時間く
らいまでなら、B5一枚かB4一枚に収めるべきだろう。
★読書会レジュメの特徴★
読書会のレポーター=プレゼンターは、いったいなにを報告すればいいのだ
ろうか。
よくない例をあげると、「あらすじを紹介するだけ」「一節をとらえて批判
するだけ」といった発表である。
では、どう発表するか。
読書会の対象となった本や論文・実践記録(以下、「本」という)を紹介す
る。紹介した後、みんなが「読んでみよう」となれば最高。
A この本の意図。なぜ、この本が書かれたか、その問題意識とその背景に
ある状況の説明である。別の言いかたをすれば、この本のもつ今日的意味であ
る。本の場合、序文に書いてあるので、そこを読むとだいたいわかる。
B Aの問題にたいする著者の「こうするとよい」という解決策。ここは著
者の言いたいことを忠実にとりだして伝える。
C Bのなかにある問題点の指摘である。一種の批判である。
D 次なる新たな問題を提起する。(次の読書会のテキストが暗示される)
★読書会のレポート(レジュメ)例★
『友だちはぼくの宝です』 頓宮 昭二 著(高文研)1200円
1 すぐれた教師のすぐれた実践
頓宮という先生について。
2 この実践が成功したのは
a 母親の愛と献身
b 宣弘君自身の生きる力 二次障害を防いだこと
c 教師集団の教育理念のすばらしさ
d その指導による生徒たちの友情パワー
e 地域の『連帯』
f マスコミの応援
g 革新知事だった
3 この実践への批判
母親の献身的な介護は障害児教育の矛盾を押えこんでいる。行政に要求す
べきだ。
4 なぜ組合がでてこないのか
解放同盟の参入を防いごうとしたのではないか。解同が運動に加わると空
中分解する恐れがあったのでは?
5 これからの宣弘君
プログラマーの道はけわしい。
6 わたしたちの実践課題
a 現実問題としておこったらどうするか。
b 『心の障害児』である子どもたちをどう指導するか。
c 福祉政策の充実を求める運動。
★もっとかんたんな読書会メレジュの作り方★
以上は、かなりきちんとした読書会のレジュメ例であるが、気軽なサークル
での読書会では、もっとかんたんな、だれにもできる話題提供でいいだろう。
次は、小論文や短い実践記録などの読後レポートに役立つ方法である。
プレゼンターになった人は、まず「赤」と「青」の二つの色鉛筆を持って、
A 意味がよくわからないところ・解釈に迷うところ−「赤線を引く」
B なるほどと感心したこと・学んだこと・参考になったこと−「青線を
引く」
こう線を引いておいて、後は、レジュメに書き取っていく。そのさい、頁と
行数を書き入れておくと便利だろう。
実践記録『美代子が涙を流した夜』 生徒指導 5月号 清水弥生
A わからないところ
3頁14行 「教師集団に話さなかった」……………なぜか。
5頁9行 「一人一人のノートに返事を書いた」……どう時間をつくりだ
すのか。
B 感動したところ。
3頁6行 「教師が子どもたちに訴える場面」……子どもたちを信じてい
たこと。
4頁15行 「父母に話した場面」……父母との関係改善の努力に心打たれ
た。
5頁16行 「教師集団との関係」……弱みをさらけだすところがすごい。
こんなふうに率直に話題を提供すると、いろんな意見が出されてにぎやかな
読書会になるだろう。
気軽なサークルの読書会では、きちんとした立派なレジュメより、こうした
かんたんなレジュメのほうが親しみやすく、かえっていろんな意見の出る話し
合いができる。
膨大で長編のレジュメは、書かれたことを理解することに注意が注がれるか
ら、どうしても質疑応答になりやすく、みんなでの話し合いを疎外する結果に
なりやすい。少し間の抜けたくらいの短いレジュメのほうが、間隙をみんなで
埋めようとなって、かえって、いろんな意見が出てくる。
かんたんレジュメのほうが、気軽なサークルの話し合いにはふさわしい型だ
ろう。
★資料付記型/問題提起のレジュメ★
サークル学習のとき、「授業について学習しよう」となって、「問題提起を
してほしい」と頼まれることがある。そうしたとき、やはりレジュメをつくっ
て、問題提起するようにしたい。
問題提起をするとなると、いろいろ学習する。学習すると、言いたいことが
増えてきて、レジュメの量が、1枚が2,3枚と増えていく。
増えないようにするには、問題提起することと、補足する資料は、別々にし
て書き分けることである。資料的なものは、付記として、文末にまとめて掲載
するのである。
わたしの場合、問題提起するとき、B4用紙を二段にして、上段から列挙型
で要点を書き、そのあとに、資料をまとめて掲載するようにしている。「なお、
このことについては資料があるので参考にしてほしい」という場合、項目の下
に(資料A参考)と書いておくようにした。
こうすると、すっきりしたレジュメが作成できる。
次は、「楽しい授業」について問題提起したときのレジュメの一部である。
☆子どもを伸ばす楽しい授業づくり☆
一 授業は教師にとって重い仕事になっている。
二 学力とは何だろうか。
三 三重の管理的授業の克服。
1 『三重』とは「教科内容・教え方・態度」の管理。
2 教科内容の統制に対して。
@ 教材の自主編成。
a 現代の課題に応える内容。
b 教師が「知」を独占するものでない。子どもの関与・参加も認め
る。
A 批判的な学び方の力を育てる。概念くだき。弱者の立場から。
3 管理的・能力主義的な教授法の克服。
@ わかる=できるを統一した授業。
A わからない、できないだろうことから授業を組み立てる。
B どこでつまづくかを知り、とりくむ。(資料A参考)
C 学ぶ力を育てる授業をすすめる。
4 態度管理の克服。(以下略)
資料
A つまずきの予想と手だて
子どもはどこでつまずくか。この予想を立て対策をこうじれば、全員参加
の授業へ迫ることができる。
a 席につき準備している子と準備していない子にわかれる。
b 教師の発問を聞いている子と聞いていない子に分かれる。
(以下略)
★レジュメの項目の立て方★
今のレジュメは問題提起の例だが、講演・基調提案などのレジュメの作成も、
この資料付記型を勧めたい。講演も一種の問題提起だからである。
ところで、項目列挙型のレジュメ作成で重要なことは、
1 章節をきちんと立てること。レイアウトは自己流でよい。わたしは、
「第一章第1節第1項目」は、「一,1、@」とし、以下、「a,イ,・」と
している。こう表記すると、話していることの大小・位置がはっきりする。
2 項目は「序・本・結」の順に、話そうとすることの標題を書いていく。
それが原則だが、「ここで、なにを話すか」思い出せるように、ヒントになる
ように書いてもいいだろう。
しかし、あまり文学的・情緒的に、自分だけしか分からないような思い入れ
の激しい表現は慎むようにしたい。ときに滑稽に映ることがある。
3 あまり多くの項目が漢字だけで並ぶと「戒名見出しの行列」になって、
レジュメを見ただけで、頭が重くなるので、なるべく数をしぼって書く。
ということは、あまり多くのことを話そうとせず、一話一概念くらいに
考えて項目を立てるということである。
4 よいレジュメの条件は、話を聞いてからずっと後になって、レジュメを
見ると、その話を思い出し、再生できるものである。
5 なお、レジュメは参加者に読んでもらうものなので、問題提起者は、別
に、自分用のレジュメを作るとよいだろう。
わたしは、みんなに配布するレジュメに、こんな話をするといったメモを
付け加え、それを見ながら話すことにしている。
なお、レジュメは資料として保存し、原稿を書いたり、再び同じテーマで問
題提起したりするときの参考資料にするとよいだろう。
◆会員レポートによる学習◆
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★会員レポートの目的★
サークルが活発に活動するようになると、会員の実践レポートによる学習会
が開かれるようになる。
会員に実践レポートしてもらって学習しようとする目的は、次のようである。
A レポートさせることで、仲間の一員に迎えようとするため。
B 地域の問題をえぐり、その克服をめざす教育活動を展開しようとするた
め。
C 新たな教育理論に元ずく教育実践をすすめようとするため。
D 会員のすぐれた実践からみんなが学ぶため。
E サークルの研究課題を継続研究するため。
こういった目的がある。
若い教師がサークルに入ってくると、日足らずして「実践レポート」を求め
るのは、Aの例である。レポートしてもらうことで、研究・実践への関心を高
め、サークルへの帰属感を深めようというのである。
サークルの席上、ある教師が「このごろ、この地域で変な遊びが流行ってい
る」と報告したことを受けて、「では、次の例会で、その実態をレポートして
もらおう」とするのはBの例である。
C例としては、たとえば「○○方式」といった斬新かつ実験的な実践にとり
くんでいる教師にレポートしてもらうような場合。
D例は会員のなかにあるすぐれた実践をレポートしてもらい、参考にしよう
という場合。 E例は、「国語教材の自主編成」といったテーマを掲げ、継続
して研究していサークルで、「文学教材試案」を提起してもらうといった場合。
あるいは、一人の教師の学級づくり実践を一年間にわたって報告してもらうよ
うな場合。
★レポーターにはサポーターをつける★
これらのなかで、どれがすぐれた方法かということはない。ただ、注意しな
ければならないのは、AやB例である。
A例は、サークル入門者が一度はくぐる関門である。
瀬戸内海のある島に転任した教師は、島人の歓迎パーティーに招かれる。そ
の席上、マグロのかぶと煮が供せられる。それを無理矢理食わせられるのであ
る。マグロのあまりの無残な姿に卒倒する新卒女教師も出るというが、このセ
レモニーをくぐって、はじめて島の先生として認められる。
どの社会でも、新入者は、その集団に入るためのセレモニーを経て、仲間と
して認められるようである。
サークルの関門セレモニーは、レポーターになることである。サークルに入
って半年くらいたったころ、「次の例会にレポートしてみませんか」と声がか
かる。何をどうレポートするのか、よくわからないが、気圧されて「やってみ
ます」
レポートしてもらうことで、実践関心とサークルへの所属意識を高めようよ
うというのである。けっこうな意図であるが、次の3点を忘れないことである。
1 無理強いしないことである。あくまでも本人の自発性にもとずいてレポ
ートしてもらうことであ る。
2 援助者をつけることである。援助者という用語はぴんとこなければ、サ
ポーターがいいだろう。 サポート(「支援すること」「元気づけること」
の意味)する役という意味である。はじめてレポ ートするので、何をどう
レポートするか、レポートはどう書くかわからないので、そのことについ
てサポートする仲間を配置するのである。
サポーターは、レポーターと同じ学校、近くの学校、近くの居住、同じ学
年を担任している教師な どが適任だろう。両者、連絡を取り合い、話し合
って、レポートを作成する。サポーターは印刷・ 綴じまで協力するとよい
だろう。さらに、例会当日、レポーターを助け、円滑にレポートできるよ
うに援助し励ます。
これは、マンツウマン・システムによって、新人を取り込んでいこうという
隠された意図のある方法である。
3 いよいよ例会の日、レポーターがレポートする。しかし、新人だから不
十分な部分も多い。
ところが、メンバーは、これまでに学習してきているから、きびしい質問
を出し、きびしい意見を述べ、ずたずたに分析する。
わたしもそうだったが、なにかを覚えたては、うれしくて、つい知ったか
ぶって、はしゃいで、人の実践を切り刻むことが楽しくてたまらなくなるので
ある。「生兵法は怪我の元」、それで失敗したことも多い。
こうして、最後に、司会者が「レポートしてくれてありがとう」と、みんな
からねぎらいの拍手が送られる。
今も、こんなようにやっているサークルは多い。しかし、こんなやり方では、
だんだんと萎んでいってしまうだろう。
新人のレポートだからいろいろ欠点もあろうが、暖かく見守り、できるだけ、
その実践のよいところを発見し、肯定的に評価することである。悪いところだ
けを見つけて切り刻まないようにしたい。
★学校の問題えぐりにならない★
B例で注意することは、「地域の問題をえぐり」が「学校の問題をえぐり」
となるときの危険性である。
「このごろ、この地域で変な遊びが流行っている」といったレポートならどう
いうこともないが、その学校内で発生したいじめ事件などを報告してもらうよ
うな場合は注意を要する。原則として、学校の情報は公開すべきであるが、外
部の人間に聞かれたくない話もあるので、そういうことについては、レポート
を求めてはならないだろう。まして、案内状に、「レポート<○○小学校のい
じめ事件>」などど書いて配らないことである。そう書いて案内すれば、たし
かに大勢を集めることはできるが、その後がたいへんで、報告者は、校長に呼
ばれて「何をしゃべったんだ」と叱られ、さらに、「危ないサークルだ」とし
て攻撃を受けることになる。
そうした、学校の知られたくない内部情報、秘事項は、ひそひそと話合うの
である。
あるいは、固有名詞を避け、「いじめにどうとりくむか」といった一般化し
た形でレポートしてもらうようにするとよいだろう。
ことさらに周囲を刺激することをやめ、なるべくソフトに愛されるサークル
運営を心がけることである。
◆実践報告の書き方◆
――――――――――――――――――――――――――――――――
★実践報告をする意味/教育の公共化★
サークルで実践報告する意味は、教育の民主化のためである。この民主化と
いう言葉の包含する概念はきわめて広い。そのひとつに、教育の「公共化」が
ある。
教師の教育実践の多くは、「教室」のなかで「一人」によって行なわれてい
る。いわば「密室における私的行為」のようにである。しかも、学校もまた地
域にたいし、情報を公開せず秘密主義に徹することで「密室における私的行為」
のようにふるまっている。それらは、いずれも教育を恣意的、独善的に私物化
しているからで、「公」であるべき教育が「私」化している姿といえよう。
教育のこの「私性」をいかに打ち破り、「公共化」するのか、パブリックな
ものにしていくのか。そこに民主教育のひとつの課題がある。近年、話題の情
報公開もそのひとつである。
サークルにおける学習は、そうした「密室における私的行為」の教育実践情
報を集団外の教師・父母に公開することによって、「私」的になりがちな教育
実践を「公共化」しようという試みといえる。
人間の理性は、別の集団に所属する多くの人々との交流のなかでつくられる。
つまり、「密室の私」は、集団との交流のなかで理性を獲得し、教育実践に
「公共」の視点を確立することができるのであ
る。その理性的な人間としての「私」こそ、民主的な「私」なのである。
「私」は、「公」や「共」に対立する否定的概念としてとらえられているが、
「私」をいかに理性化するか、といった実践のすじみちも検討しなくてはなら
ないだろう。(集団づくりの意味でもある)世間というか、民衆というか、公
衆というか、パプリックな人々と交流しない「私」は、本来的に「私」とはい
えないからである。集団をくぐり抜けて、はじめて「私」が成立するのである。
教師の場合、自らの実践を多くの教師や父母に提起するなかで、その理性を
鍛え、これまでの「密室のひとりよがりの私」を「公共性を獲得した理性的な
私」へ発展させ、「公共性を獲得した公教育にふさわしい教育実践」が展開で
きる。それが実践報告のひとつの意味である。
★レポートを書く意味★
実践報告をする場合、レポートを書いて提案する。聞く人の便宜のためであ
る。報告の後、質問したり意見をのべたりするときの資料にもなるからである。
口頭発表だと、正確さが期しがたい。
レポートを書くのは他人の便宜のためだけではない。自分のためにもなるの
である。自分の実践を整理し総括するに有効だからである。
わたしもずいぶん実践報告をした(させられた)ことがある。わたしは頼ま
れると断れないタチで、つい引き受けてしまう。
ところが、いざ実践報告を書こうとすると、毎日、ずいぶんと忙しく立ち働
いているにもかかわら
ず、なにも書くことが見当たらない、書けないという経験を繰り返した。それ
でも迫られて書いていくと、このとき、なぜこんなことをしたのだろうか。し
なかったのだろうかと反省することしきりで、ずいぶん荒っぽいことをやって
いるのだなあと冷や汗をかきかき、レポートを書いた。その反省が次の実践に
生かされ、やがて、力まずにレポートすることができるようになった。
研究授業を経て授業が上手になるように、実践報告を書き、提案することで、
いい実践ができるようになる。実践報告の経験と実践の質は表裏一体であるか
ら、臆することなくむしろ、すすんでレポーターに立候補するようにしたい。
なにごとも慣れが必要だから、何回も実践報告者になるうちに、だれでもし
ぜんに書けるようになってくる。面倒くさがらずに、実践報告を経験すること
である。
とはいえ、多少のコツがないわけではない。
★実践報告の書き方★
実践報告の書き方について「何でもいいから、今やっていることを書いてみ
なさい」といわれることがあるが、これはまちがいである。
教師が今やっていることは膨大なことなので、それを書けといわれても、多
き過ぎ、広過ぎて書き切れるものではない。
教育実践とは「あるねらい、目的意識をもって教育したこと」をいう。実践
記録は、その報告書である。
そうなると、実践報告の書き方がほぼきまってくる。次のような流れになる。
1 <実践のねらい>
@ 子どもの問題状況がある。
A 解決しなければならない理由がある。
2 <実践の方針>
@ 解決するために、問題を分析する。
A 指導の方針を立てる。
3 <実践の展開>
@ 方針にしたがって取り組む。
A 失敗。分析のやりなおし、方針の修正、再度のとりくみ。
B その結果、どうなったか。
4 <実践の総括>
@ 今後の展望はどうか。
A この実践の総括。
この流れにしたがって、ある実践事例を説明すると、次のようになる。
1 <実践のねらい>
@ A君が暴力をふるう。A君の成長にとって問題であると同時に、A君
の暴力を許すことは教師不信を広げ、学級を崩壊させ、多くの子どもの
成長発達を疎外させる。
A A君の暴力にとりくむことで、人権尊重の認識と実践力を子どもたち
に育てる。
2 <実践の方針>
@ A君は父子家庭で、愛情にたいする欲求不満がある。
A 自尊感情を喪失しているA君に自信をもたせる。
まわりの子どもたちのとりくみを引き出す。
女子の教師に援助してもらい母性的自我を保障する。
3 <実践の展開>
@ A君と雑談したり遊ぶ時間をふやし、仕事を与え、ほめるようにした。
支援グループをつくってA君といっしょに遊び、暴力には「やめろ」
と声をかけるようにした。
女子教師も、A君の世話をやき、声をかけたり、綻びを直したりして
可愛がった。
A 少しよくなったが、まだ不十分。
父親の暴力に原因があると再分析、中止を求める方針を立てとりくんだ。
B 父親へのとりくみは難渋をきわめたが、同学年教師の助力を得て、暴
力をやめさせ、父子の関係を変えたことで、暴力はほとんどなくなった。
4 <実践の総括>
@ 今後、A君はクラブ活動などで、好きなことに熱中し、自己実現をは
かるようにする。
A 回り道したが、子どもの行為・行動は、その生育史や生活が生み出す
ことが分かった。「生活のなかでみる」視点を今後の教育活動に生かし
ていきたい。
以上は骨子である。これは成功例だが、失敗例を書いて、どうすればいいか、
教えてくださいと提起してもいい。
★実践報告書の長さ★
実践記録を書くときには、字数には制限ない。しかし、実践報告として、サ
ークルのメンバーに提起するときは、自ずと制限がある。やたらに長くてもい
けないし、短過ぎてもよくない。実践報告に費やされる時間はどれくらいかに
よってレポートの長さをきめる。
サークルでは、実践報告を元に学習するわけだから、次のようなプログラム
になる。
1 司会者のあいさつ。開会と実践報告者の紹介など。
2 実践報告。
3 質問。
4 話し合い。
5 まとめ。
6 本人の感想。
7 司会者のことば。報告者への謝辞と閉会。
このなかで、いちばん時間がほしいところは「4 話し合い」である。ここ
に、多くの時間を割くため、他のところはなるべく切り詰める。ということを
計算して、レポートの長さをきめるのである。
実践報告に与えられた時間が120分としたら、時間の配分は次のようになる。
1 司会者のあいさつ。1分以内。
2 実践報告。 25分。
3 質疑応答 20分。
4 話し合い。 60分。
5 まとめ。 10分。
6 本人の感想。 3分以内。
7 司会者のことば 1分以内。
実践報告の時間は少ないようだが、学会でも報告はこのくらいの時間である。
とすると、その時間のなかで報告できるような字数で書くということである。
そうなると、読みやすい行間をとったとして、多くてワラ半紙二枚くらいで
ある。びっしりした文字で5枚も6枚もに書いてレポートするのは、場違いと
いうもので、報告者の見識は、こうしたところにも伺われるのである。
このごろ、実践報告の発表のし方がレポートを読むというようになってきた
ので、限られた時間で報告するには、その時間内で読み終わる分量で書くこと
になる。15分の報告時間だと、だいたい半紙二枚くらいが適量であろう。その
範囲内で、実践が書けるようになることも、必要な訓練となる。
★実践レポートで大切なこと★
実践報告できらわれるのは、教訓的な態度である。これは講演の法則でもあ
るが、「聴衆は教育されることを嫌う」(「発表の技法」諏訪/講談社。以下
同じ))からだという。だから「聴いていただくつもり」で報告しろという。
また、俗受けをねらって、面白く報告しようとしないことである。「聴衆は、
楽しいだけの発表を嫌う」(同前)で、教師の世界はやはり真面目で真摯な報
告が支持される。楽しいだけでは、中身がないと思われるうえ、子どもの深刻
な問題状況にとりくんだ報告が楽しいだけでは少しく不謹慎と感じられるから
であろう。
さて、実践報告を聞いていていちばん知りたいと思うことは、教師の具体的
な言動である。そのとき教師は具体的にどんな言葉で子どもに話しをしたか。
なにをしたかという具体である。
次の文章はわたしの実践報告の一部である。
………………………………………………………………………………………
最初の作戦会議で各班に指導に入る。六班と相対する一班に入って作戦を
聞くと、だれがだれの正面に立ってタッチするか細かくきめている。だが、六
班に入ると、男子と女子が言い争いをしていた。それをなだめて、一致してこ
の遊びに勝つ方法を教える。いよいよ開始。
………………………………………………………………………………………
こう書いて報告したら「『一致してこの遊びに勝つ方法を教える』とあるが、
どう教えたのか、そこがいちばん知りたいところなのに、なぜ書いてないのか」
と、批判されたことがある。「どう教えたのか、そこが知りたい」というので
ある。
教師の指導の具体を書くことである。さらに、そのときの教師の心情、ドキ
ドキハラハラといった感情、心の動きもあわせて報告する。人間教師をありの
ままに報告してよいのである。そこが実践報告の面白さ、深さなのである。
教育とは教師の全人格的なはたらきかけだからである。その意味で、実践報
告は私小説的要素を含んだ説明的文章といえよう。
★実践報告の秘作戦★
実践報告を頼まれた。しかし、困った、報告すべきものがない。書けない。
実践も弱い。どうしようか。そういうとき、どうしたらいいのだろうか。
実践報告するまえおきとして、正直に「よい実践ではない」と告白すること
である。
ほかに、どう切り抜けるか。以下はそのノウハウである。ただし、これは秘。
発表の法則に「発表を聴いてほしくなければ歴史的考察を延々とするのがよ
い」がある。発表を聞く側の法則に「歴史的考察が始まったら部屋を出よう。
この発表に学ぶことはない」(同前)とある。
このことから、実践報告の「歴史的考察」をにあたるところは、「1<実践
のねらい>」という状況報告である。状況報告はいくらでも書けるから、この
部分の報告を延々とやると、以下「2〜5」の報告時間が不足になり、「時間
が足りないので」という言い訳で実践の貧しさをカバーできる。
この法則は「発表時間を超過すれば『時間が足りないので』という言い訳で
研究成果の貧しさを隠せる」「発表時間を超過しなれば『時間が足りないので」
という言い訳で研究成果の貧しさを隠すことはできない」(同前)という法則
による。
また、報告の声の法則もあるという。こんな法則である。「小さな声の発表
は、内容の貧しさを悟られない」「大きな声の発表は内容の貧しさを声量でカ
バーしている」
しかし、なるべくこれらの法則を用いることなく報告するようにしたいもの
である。
◆原稿の書き方◆
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サークル活動に参加していると、会報や研究冊子のほか、出版社などから、
原稿を依頼される。そのときの心構えを書く。
★自分のために書く★
原稿を書くことが苦手だという人がいるが、依頼されたら、よい機会だとと
らえて、なるべく承諾するようにしたい。教師というような知的生産に関わる
職業に従事するものは、基本的に、論文や実践記録が書ける知的能力が望まれ
るからである。文章の書けない教師は、ノコギリの使えない大工のようなもの
だからである。
文章を書くことは容易なことではない。話すこととちがって、単語を並べた
だけでは体をなさない。会話なら、主述が揃わなくても、手振り身振りで補え
るが、書くとなると、そうはいかない。しかも、あとあとまで形として残るか
ら、いいかげんなことも書けない。重い仕事であり、できれば断わりたくなる
気持ちも分からないではない。
だが、原稿執筆は教師の知的能力を磨くにふさわしい作業である。
というのは、書くという行為は、考えること、調べること、総括すること、
構想することといったメンタルな作業をともなう。とくに考えこむことが多い。
自分のことで恐縮だが、何をどう書くか、構想するまでがたいへんで、考え
がまとまるまで、長い時間がかかる。ようやく考えをまとめて書き出すと、書
き進むにつれて、自分の考えの不足や浅さに気がつき、筆を止めて考えこむ。
執筆作業は、書いている時間より、考えている時間のほうが長い。それほどに
頭を使う作業はほかにはない。
書くために考え、書きながら考える。つまり、書くことには、常に、考える
ことがついてまわる。だから、書くことによって、深く思索することができる
ようになるのである。 したがって、原稿を依頼されたら、「〜のために書く」
のではなく、自分の知性を磨くために書く、自分の力量アップのために書く、
自分を表現するために書く、自己実現のために書く、すなわち「自分のために
書く」ととらえて書くことである。
もっとも、このごろワープロで原稿をつくる人が増えたので、「書く」では
なく「打つ」といったほうがよいかもしれないが、ここでは「書く」と表現す
る。
2 書きたいことについては、なかなか依頼してくれないが、それも試練。
原稿依頼には「テーマ」がある。これこれについて書いてくださいと依頼さ
れる。しかし、多くの場合、自分が書きたいと思うテーマを依頼されることは
ない。マーフィーの法則であろう。たいがい自分が書きたいと思うテーマ得意
なテーマからズレていたり、まったく別のテーマだったりする。ふりかえって
みても、書きたいと思っていたテーマを依頼されたことは百に一つくらいであ
った。ときに、「うーむ」とびっくりするようなテーマでの依頼もあった。
だが、断わらずに書くことである。すぐれた編集者は、その人のよいところ
を見出だす力があるの
で、自信のないテーマを与えられても、書くことで、自分の可能性が引き出さ
れることが期待できるからである。試練だと思って書いてみることである。
★原稿執筆の不文律★
原稿執筆には守るべき前提がある。
1 児童・生徒のプライバシィーを守ること。
たとえば、児童・生徒名は仮名にするといったようにである。病名なども、
変えるようにして、なるべく特定できないようにする。とくに実践記録の場合
は留意して、筆禍を被らないようにしたい。事実を書くのではなく、真実を書
くのだから、仮名にしたり、状況を変えたりしても、真実を歪めることにはな
らない。
ただし、仮名にする場合、S子、M男と表記する例が多いが、幸子、昌夫と
いうように人名をつけた仮名のほうが親しみやすい表記となろう。これは単に
好みの問題ではないだろう。
それでも、「あの先生の書いた記録に出てくるS子とは、あの生徒だろう」
と特定されることを恐れて、ある女教師はペーンネームで書いている例がある。
2 嘘を書いてはならない。
とくに実践記録は成功失敗を含めて、ありのままに書くことである。生徒の
作品、資料紹介も同じである。
今、生徒の書いた作品、大関松三郎の詩をめぐって「どうも教師が手を加え
たのではないか」と問題になっているが、「手を加えた」のなら「手を加えた」
と正直に書くことである。
3 他人の書いたものを自分の名前で発表してはならない。
当たり前のことだが、これはよくあることで、わたしも何例か知っている。
たとえば、先輩が後輩の論文を自分名で発表するといった例である。わたしも
被害にあった。地方紙に連載した実践記録が「生活指導」誌に、そっくり、そ
の人の名前で発表されたことがある。
「紹介しておいたよ」と言われたが、どこにもわたしの名前は書かれていなか
った。それ以来、このサークルに不信感を抱くようになった。
★約束を守って執筆する★
1 原稿依頼についての諾否の返事は期日までに必ずすること。
原稿依頼が文書による場合、諾否についての返事が求められる。依頼文に
「なお、諾否の返事は同封の折り返しのはがきで、4月5日までに、お知らせ
いただければ幸いです」というようにある。
@ 諾否の返事を出すこと。社交儀礼である。また、トラブルがあって依頼
文が届かなかったのではないかと心配をかけてはならないからである。
A 期日を守って返事を出すこと。指定された期日までに届くよう返送する
こと。
よくないのは返事を出さないこと。「書こうか、書くまいか」「書けるか、
どうかな」と考えているうちに返事が遅れ、時期を逸してそのままになること
が多いのだろうが、礼儀知らずに見られる。もっとも、返事を出さないと、二
度と執筆依頼は来なくなるから、意図的に執筆拒否する場合には、無視しても
よいだろう。
2 執筆依頼に示された約束を守ることである。
執筆を承諾するということは、その約束も承諾したということだから、それ
は、守らなくてはならない。守れそうになければ承諾しないことである。よく
ないことは、承諾しておいて、約束を破ることである。
@ 締切りを守ることである。遅れても、二、三日、これが限度である。
偉ぶった人のなかに、売れっ子の多忙さを印象づけるために、わざと締切り
を守らない人がいる。締切りは約束ごとだから、執筆を受諾した以上、期日は
守らなくてはならない。
締切り日の2,3日前に届けるようにする、これが執筆者のマナーである。
とくに、執筆経験の薄い場合、戻されて書き直しすることもあるから、なるべ
く早く届けるようにする。そういう謙虚さを忘れないことである。
わたしも編集の仕事をしたことがあるが、締切り日を守らない人がいて往生
したことがあった。3人いたが、いまだに誰か覚えている。
遊びについての本を六人の共著で書くことになったが、二人の教師が締切り
日を守らない。催促してもなしのつぶて。結局、執筆者を差し替えたが、その
ために発行が一年以上遅れてしまった。今でも苦々しい思い出として、その名
を覚えている。
わたしは、思い切って差し替えたからよかったが、差し替えずに待ったため、
時期を過ぎて発行不可能になり、企画断念した例もある。断念した場合、共著
では、すでに原稿を提出した人がいるわけで、その人の原稿をどう処理するか
が大問題となる。この処理に十年以上もかかったということがある。
もう一人は別の本でのことだったが、原稿を催促すると「明日出します」と
返事する。これが何回も続いた。十回目くらいだったろうか。催促すると「今
朝ポストに入れました」という返事。しかし、何日たっても届かない。届かな
いことを知らせると「確かにポストに入れた」という。困ってからに、あるベ
テラン編集者に相談すると「それは、苦しまぎれに嘘をついたんだ」というこ
とだった。郵政省のせいにしたのである。
しかし、いろんな事情から締切り日に遅れることがある。だから、二、三日
くらい遅れることがあってもやむを得ないだろうが、それが限度である。二,
三日くらいは依頼するほうもサバを読んでいるから、まあ、その程度は許され
るだろう。
依頼者が、ぎりぎりの日程計算で原稿を依頼することはまずない。多少の余
裕をとって依頼する。たとえば、締切りは五月一日とする場合、連休中に書く
ことになろうと見越して、実際には五月六,七日くらいに原稿が送られてくる
だろうと予想する。しかし、五月六日締切りにすると、次の月曜日までずれ込
むことになるから五月一日締切りにして、実際には五月七日までに原稿が揃え
ばいい、そんな計算で締切り日をきめるからである。
A 依頼された原稿量を守ることである。
原稿依頼には必ず「長さ」がある。たとえば「十四・五枚(四百字詰め原稿
用紙)」というようにである。この長さを正確に守る。長過ぎても短過ぎても
いけない。
とくに、注意することは図表・写真の分量計算である。原稿用紙の上でその
スペースをちるのではなく、実際の紙面で計算する。
先日、依頼された執筆要項にこうあった。
「図表は以下の分量を目安に本文行数を減らしてください。
左右7cmまでの場合、天地7cm=十六行、2cm=5行。
左右7cm以上の場合、左記のそれぞれ一.五倍」
自分が掲載したいという図表・写真を実際の紙面に当てて行数・字数を計算
して、その分量を減らして書くようにする。
また、このごろ、編集作業の合理化をはかるためにページ原稿による依頼が
増えてきた。ページ原稿とは、その一枚の原稿用紙が、そのまま本文1頁にな
るという原稿用紙である。
したがって、多過ぎても、次頁に繰り越せないし、少な過ぎると、そのペー
ジに空白ができることになる。多過ぎず少な過ぎず、ぴたっと入るように書く。
わたしもこのページ原稿による執筆依頼をしたことがあるが、三分の一の教
師は、少な過ぎで、その何人かには原稿を戻して書き足してもらったことがあ
った。多過ぎるのは削ればいいが、不足の場合、書き足さなくてはならず、編
集者泣かせとなる。
B 原稿依頼の要項を守る。
たとえば、「である調でお書きください」という文体指定や「50〜60行に1
つくらいの割合で中見出し(2〜3行どり)をいれてください」「フロッピー
の場合、機種・使用ソフト名をかならず明記してください」など、忘れずに守
るようにする。
3 「きれいな原稿」に努める。
原稿には「きれいな原稿」と「汚い原稿」がある。このごろ、ワープロが普
及したので「きれいな原稿」が多くなったが、書き散らしたような原稿、抹殺・
訂正・加筆の多い原稿にならないよう留意したい。きれいな、なるべく誤字・
脱字の少ない原稿を提出したい。
文章の上手下手は心配しないでいい。原稿は活字になると見違えるようによ
くなるからである。活字の魔力というのだろうか、
生原稿を読んでいると、下手な文章で読みづらいし、なにを書こうとしてい
るかよくわからないと思える原稿も、いざ、活字となって雑誌に掲載されると、
蘇ったように筋の通った文章になる。文章は活字になると再生するのである。
文章が下手だと悩むことはなにもない。
★引用する場合の心得★
1 他人の書いたものを盗用してはならない。わたしの群読の脚本などずい
ぶん盗用された。著作権の侵害行為である。近年、この権利の保護が強く叫ば
れるようになったので、これまでのようにいいかげんな態度で引用してはなら
ないだろう。引用する場合、いちいち著者の許可をとる必要はないが、少なく
とも氏名と出典をあげることである。
@ 引用分の扱い方は次の二つがある。
a 文中に埋めて書く。
例 池田敏雄氏は「文化活動は人間が人間としてどうあるべきか、その
生き方を追及する活動である」と述べている。
b 改行して示す。引用文は一字下げて表記したり、文字サイズを落とし
たり、その前後は各一行分開けて、読みやすくしたりする。ただし、引
用文を罫線で囲って強調するのは汚いので、やめたほうがいい。
例
文化活動について問い直しを迫った池田敏雄氏は次のように述べている。
文化活動は人間が人間としてどうあるべきか、その生き方を追及する活
動である。そのことを忘れた活動は「活動主義」といわざるを得ないだ
ろう。
つまり、特別活動観となんら変わらないというのである。
雑誌の原稿ではa例、b例を用いるときは、単行本のような紙数に余裕のあ
るとき、しかも重要な引用、長い引用文に用いるのが原則である。
しかし、このごろ、紙面を見やすくするために、やたらにb例を用いるよう
になった。わずか一文の引用に、前後各一行を開けるにはなにかもったいない
気もするが、そういう紙面にしないと、活字がびっしりと埋まったように見え
て、それだけで敬遠されるようになったというので、今後、b例が増えるよう
になるだろう。
A 引用を示す表記方法は4タイプある。
a 文中に書く。
例 高文研から出版された池田敏雄氏の近著「文化活動」のなかに
「文化活動は人間が人間としてどうあるべきか、その生き方を追及
する活動である」と述べられている。
b 文中に( )で示す。
例1 池田敏雄は「文化活動は人間が人間としてどうあるべきか、その
生き方を追及する活動である」と述べている。(高文研「文化活動」)
例2 文化活動は人間が人間としてどうあるべきか、その生き方を追及
する活動であるという。(池田敏雄「文化活動」高文研)
c 頭注・脚注に示す。
頭注の例
*池田敏雄「文化活動」高文研 文化活動は人間が人間としてどうある
べきか、その生き方を追及する活動で
あるという。
d 末尾に「注」を一括して示す。
末尾 注1 池田敏雄「文化活動」高文研/54ページ
ふつうはa・b例でよい。c例の頭注・脚注は古典のような注釈を必要とす
るときに用いる特殊な用例だったが、このごろ、横組み本のなかに、見やすい
紙面、変化のある紙面のレイアウトとして、これを用いるようになった。
編集者の要望で、わたしも民衆社の「学級担任ノート」(3巻)で、この表
記方法を用いた。
d例は学術的な論文に多い。学者はこれまでの研究のうえにたって研究をす
すめるから、引用は当然多くなり、ときに、その引用によって、その学問の質
がはかられることもある。反対に、自分の論文がどれほど多く他の学者に引用
されたかで、その力量が賞賛されることもある。
B 参考文献があれば一括表示する。
引用とは違うが、参考にした文献があれば、末尾に「参考文献」として、一
括、表記する。参考にさせていただいた感謝と今後研究する人のための資料案
内として紹介するのである。
生活指導誌に会員が原稿を書くというようなうちうちでは、とくに参考文献
は書かなくてもいいが、学術的な論文を書く場合は、表記しなくてはならない。
C 人の作品を利用する場合は許可をとる。
群読の脚本集を書いたとき、とりあげた詩の原作者の許可を得た。また、教
科書に掲載された詩や文章を用いる場合、教科書会社の許可を得る。このごろ
詩のアンソロジーが流行しているが、掲載した詩を書いた詩人の許可をとるよ
うになる。
ふつう、快く許可してくれるが、なかには条件をつけられることもある。ま
た、ふつう無料だが、なかには有料もある。群読脚本集に光村の教科書に掲載
された説明文をとりあげようとして許可を求めたら、法外な料金を請求されて
驚いた。教科書準拠のテスト問題集に無断で教材を利用されたといったことが
重なったからであろう。
★編集のする場合の心得★
サークルの会報や研究冊子を編集する立場にたったとき、どういうことに留
意したらいいのだろう
か。
1 みんな忙しいので、そのことを考慮に入れて原稿依頼をする。1月くら
いの余裕はみておいたほうがいい。
2 原稿が期日に間に合わない人が出ることを予想して、対策を立てておく
こと。
香川県のあるサークルでは、原稿を依頼して間に合わないと、その部分を空
欄にして「ここは三宅氏が執筆する予定だったが、原稿が届かなかったので空
欄にした」と書いて印刷して配布した。「期日厳守しないとこうなるぞ」と恥
をかせたわけである。
会報がうちうちだけに配布されるのなら、これも愛嬌だが、会員以外の眼に
もとうぜん触れるわけである。なかに「これは面白い」と真似るサークルがあ
ったが、わたしは賛成しなかった。
期日に間にあわない人の出ることは予想されることだから、あらかじめ予備
原稿を用意しておいて埋めるべきだろう。これは編集者の責任ということで、
その責任を執筆者にあからさまになすりつけてはならないだろう。仲間のする
ことではない。
★原稿執筆の機会★
サークル活動を長く続けていると、やがて、いろいろなところから原稿執筆
を依頼される。
そのきっかけは、
1 そのサークルの全国的組織での研究会での発言や実践報告が認められ、
その機関誌に原稿を執筆 するよう依頼される。
2 全国教育研究集会での発言や実践報告が教育出版社に認められ、その出
版社の発行する教育雑誌 に原稿を依頼される。
3 その教師の教育実践が教育出版社や教育広報編集者の耳に入り、原稿執
筆を依頼される。
4 出版社に送られてくる投稿が認められて、原稿執筆が依頼される。
5 その他には、先輩・友人の紹介によって、出版社から原稿依頼される。
わたしが最初に依頼された教育関係の原稿は「3」である。神奈川教育委員
会の教育広報誌から、当時、わたしがカウンセラーとして手掛けていた「匿名
紙相談法」について書いてほしいという依頼を受けた。わたしの小学校の恩師
が、この広報誌紙の編集をしていて、たぶん贔屓してわたしに書かせたのであ
る。
2回目が「5」である。わたしの学校の先輩教師が小学館の「中等教育」誌
の座談会に出席を依頼されていたが、当日、急に出席できなくなり、わたしが
ピンチヒッターとして出席したことから、この雑誌から原稿依頼を受けるよう
になった。
本格的に原稿執筆を受けるようになったのは、「1」である。全国生活指導
研究協議会の会員であったことから、その機関誌「生活指導」から原稿依頼を
受けるようになった。
一般に、教育関係の出版に携わる編集者は、「できるだけ多くの読者に読ん
でほしい=売れなくて損をしたくない」ということから、著名な実践家に原稿
を依頼する反面、たえず、新しい実践家を発掘しようとしている。情報収集に
余念なく、ときどき、編集者から「遊びについて書いてもらえる先生を紹介し
てくれませんか」など依頼されることがある。
ある機関誌の編集長をしていたとき、けっこう投稿があったことを覚えてい
る。なかには「実践記録を書きました。読んで下さい」と原稿を持ち込んでく
る教師やサークルもあった。現在、出版事業も手伝っているが、「本にしてく
ださい」という原稿持ち込みは多い。
このように、売り込み時代であるから、積極的に原稿を送って、執筆の機会
を得ようとしてもよいだろう。
この積極的なアプローチは、出版社にとっても好都合である。その中から新
しい実践家を発掘できれば、これを応援し、成功すれば、その著作を独占し、
利益を生むことができるからである。
ただし、教育出版社のなかには、詐欺のような会社もあるから注意したい。
A出版はその最たるもので、「教師は給料をもらっているのだから原稿料は払
わなくていいだろう」と嘯いて原稿料を支払わない。また、自称、民主的出版
社と名乗るインチキ会社のなかに、「自分たちは正しいことをやっているのだ
から、ほかの人は我慢すべきだ」といった論理を立て支払わない例もある。
また、教師のなかには、無料でもいいから「執筆機会を得たい」という人も
いることから、「支払わないでいい。書かせてやったのだから」と支払わない
こともある。あるいは、教師は見栄をはるのか、金銭には恬淡としているのか、
「原稿料を支払え」と催促しない例が多い。そこに付け込んで支払わない会社
もある。
原稿依頼するとき、「稿料は1万円(税込み、雑誌発行後にお送りします)」
と示して依頼する。執筆の受諾には、その支払い事項が含まれているわけだか
ら、この約束は守ってもらわなくては不公平というものである。
また、M社のように、発行部数をごまかす会社もある。昔は検印紙をはって、
部数の正確さを期したが、手数がかかることから「検印廃止」となって、出版
社の良心に委ねることになった。それをいいことに、三千部発行しながら著者
には二千部発行したとして印税支払いをごまかす会社もある。出版社の選定に
は充分留意し、詐欺に引っ掛からないようにしたいものである。
◆予言者故郷に入れられず◆
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教育にはいろいろな考え方、やり方があるが、少しでもよい教育をしたいと
いう願いからサークルをつくって研究するようになった。その研究によって、
一つの学校や一つの地域を越えた普遍的な教育思想や教育技術を学んだり、発
見したり、創造したりするためである。そして、サークルで学んだことは当然
のことながら、所属する学年・学校の教育活動に生かそうとする。
ところが、学校は保守的で、今、その学校を支配する潮流とは異質な理念や
実践をすすめることを極端に嫌うのである。
自己が所属する学年・学校のなかで、それまでの潮流に乗りながら、その方
向性のなかで研究し、実践しているぶんには、だれも非難はしない。むしろ、
立派な教師だ、熱心な教師だ、と評価してくれる。しかし、異なる思潮や実践
の持ち込もうとすると、一転して排除しようとする。
その理由は五つある。
1 慣性の法則とでもいうのだろうか。今の状況を保ちたいとする、物の本
来的な性質による。変化を嫌うのである。
2 よそ者を嫌う日本的風土である。とくに、この傾向は農耕民族に多い。
農耕民族は定住して生活する。農地は限られているから、食物や農地をよそ者
にわけ与える余裕はない。しかも、流れてきたよそ者は、ときに病原を持ち込
むこともあるからだ。そうした生活態度がよそ者を排除する精神的風土を形成
している。
3 嫉妬からである。新しい研究や実践を提起したことに対する嫉妬、抜き
出た者への羨望からである。
4 自分の位置を奪われる恐れからである。新しい思想や技術によって、自
分の思想や技術が使いものにならなくなり、仕事と地位が奪われることを恐れ
るからである。なんとなく身の危険を感ずるのだろう。
5 支配者がよそ者の排除に懸命だからである。よそ者によってもたらされ
る思想や技術が人々を賢くし、これまでの支配に異変をおこすことを恐れるか
らである。
こうした理由で、今もなお、学校の支配的潮流に異変をおこす教育思想や技
術の侵入を防ごうとしている。そして、防ぎ切れなくなると、その思想や技術
をもたらした教師を異端として敵視し、これを排除しようとする。
少しばかり話は大きくなるが、そのことで殺された人もいる。
たとえば、イエスである。イエスはユダヤ人だが、ユダヤ集団の宗教を信じ、
これを補強していればよかったのに、民族を越える普遍的な真理にもとづく新
たな宗教、民族を越える人類の宗教を確立し、それを広げようとして、同国人
によって殺さることになった。
これは極端な事例だが、そうした事象は俗に「予言者、故郷に入れられず」
という言葉によって表現される。
この言葉は、新約聖書ルカ伝のイエスの言葉だが、すぐれた人物は故郷の人
々に受け入れられず認められないことをたとえている。自己の集団を越える普
遍の真理を発見したものは、その集団に受け入れられないのである。
サークルの研究・実践もこれとよく似ている。サークルのメンバーは、別に
予言者ではないが、その研究や実践が、学校を越えはじめると、異端視される
ようになるのである。
すぐれた先進的な実践家ほど地元の評判が悪いのも、そういう理由からであ
る。あたかも受難者のようにである。
集団づくりの理論を確立したある教師は、学校教師集団から排除され、職員
室でなく事務室に机が置かれていたということもある。
だから、悪い評判などあまり気にすることはない。むしろ、悪くなればなる
ほど、その研究・実践が、相手にダメージを与えている、核心に迫っている、
だから、あわてている、困っていると見るべきだろう。怖い存在だから非難・
悪口によって、その影響力を殺ごうとしているのである。
これはどこの社会にも共通する現象で、教師社会だけの特徴ではない。なに
ごともそうだが、「出る杭は打たれる」のである。
ということから、サークルを脱会した教師も少なくない。だからといって、
卑怯で節操がない教師とは思わない。多分、サークルの運営が悪かったのか、
関心に合わなかったのだろう。
だから、サークル活動を無理して続けることはない。「特別な人」などと言
われ、受け入れられず、将来にかかわると感じたらサークルをやめればいい。
やめることで身を守ること、それもまた思想なのである。そして、やめたから
といって忸怩たることもない。
サークルのすぐれているところは、出入り自由ということである。やめたく
なったらやめればいい。やめたからといって、だれも非難しない。そこはサー
クルのよいところで、やめた人の悪口は聞いたことがない。
教師はいろいろな経験をとおして成長するから、サークル活動もその一過程
にすぎない。わたしもいくつかのサークルに入り、やめてきた。いろんな理由
で。
◆他サークルとのつきあい方◆
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★協議会をつくることからはじめる★
同じ志を持って研究するサークル同士は交流し、連帯して研究しなくてはな
らない。教師が連帯して仕事をすすめるように、サークルもまた連帯して、地
域の民主教育の発展をめざす研究活動を展開するためである。
ふつう協議体を組織し、サークルの代表が定期的に会議を開いて、情報を交
換したり、共同の研究会を計画して研究をすめる。
その協議体の全国組織が日本民間教育研究協議会である。地方単位の協議会
としては、たとえば、「九民研=九州地区民間教育研究団体協議会」などある。
「関東民間教育研究協議会=関民研」も盛んであったが、開店休業したまま今
や消滅。
県単位の協議会は県民協という。以下、市単位の民教は市民協がある。
もし、そうした協議会がなければつくればいいのである。
わたしたちは三浦民教に所属している。最初、当地には綴方と生研サークル
しかなかったが、わたしの校内サークルが目標を立て、五年間かけてとりくん
で、教科サークルをつくった。新英研・数教協・歴教協・体育同志会・音楽・
美術・国語などのサークルで、それらが集まって協議体をつくり「三浦民教=
三浦地区民間教育研究協議会」と称した。
★サークル同士のつきあい★
サークルは、この協議体に加盟しているサークル、あるいは未加盟のサーク
ルとどう交わればいいのだろうか。とくに難しいことはない。ふつうの一般社
会の交際を越えることはない。
1 定例会の通知を送り、参加を要請する。
各サークルは定例会を持っている。その通知を送るということである。
@ 「わたしたちのサークルはこんな活動をしています。どうぞ参加してく
ださい」という意味。活動を公開し、紹介し、参加を要請するためである。
A サークルには、大きく問題別と教科別がある。問題別とは生活指導、平
和教育など教科を横断するテーマを研究するサークル、教科別とは国語や英語
などのサークルである。
教師の学習の理想からいえば、両方の、いずれかのサークルにまたがって
参加することが望ましいからである。
たとえば、数学のサークルのメンバーが問題別の、たとえば生活指導サー
クルに参加して研究するというようにである。また、反対に、生活指導サーク
ルの会員が好きな教科サークル、たとえば歴史教育のサークルに参加するとい
うようにである。
このように、一人が教科サークルと問題別サークルの両方に参加すること
が理想である。この方向を推奨するために、お互いに定例会の通知を出と合う
のである。
なお、通知は各サークルの代表者に送るのがふつうだが、小人数の場合は、
協議会加盟サークルの全会員に配布することもある。
2 研究会・集会への参加要請。
サークルは行事をもつ。たとえば、国語サークルが群読の講習会を実施す
る、平和教育サークルが教育講演会を開くというようにである。このとき、他
のサークルへ案内のチラシを送り、会員に配布してもらい、多数参加してほし
いとお願いする。
3 共催・後援の依頼。
あるサークルが講習会・講演会を実施するとき、他のサークルに主催団体
に名を連ねたり、後援してもらうことがある。盛会を期するためである。
しかし、あまり安易に承諾してはならない。次の4点にわたって用心深く
検討する。
@ 裏に隠れた政治的主張に加担する恐れはないか。政治活動を隠れ蓑とする
サークルもあるからで、党勢拡大や選挙に利用されることがあるからだ。
A 組合活動に利用されることはないか。これはわたしの経験だが、連続講
演会を依頼 されたことがある。後でわかったことだが、組合の役員選挙に利
用するため連続講演会を開いたとのことだった。
B 経済的問題がある。講習会・講演会にはリスクがともなう。収支が赤字
になった場 合、共催団体が分担して負担することになる。共催とは成功を分
かち合うだけでなく、損失も分かち合うからである。
その恐れがある場合、どうするか。
一歩退いて、後援にする。後援には、経済的後援と精神的後援があるが、
「今回は経済的応援はしない」などと断わる。後援の場合、入場券チケットの
普及販売と当日の仕事を手伝うことになる。
C 作業層として利用されることへの警戒である。
以前、教科研が夏の教育研究集会の開催について神奈川県民協との共催を
申し入れてきたことがあった。当時、夏の神奈川県民協の研究集会には千人以
上が参加していた。この動員力に教科研が目をつけたのである。
わたしは反対した。教科研は、教育研究の連帯のためと主張したが、実際
には、教科研は自力で研究会を組織する能力を失っていて、そのため作業要員
となる手足が欲しかったのである。教科研は組織することと研究活動とを一体
としてとらえてこなかったからである。そこで、「宿借り」のように、あちこ
ちの県民協に共催を申し入れ、県民協を手足に使って研究会を開こうとしたの
である。
教科研は、日本のサークル活動の元祖のようなものだから、「県民協は共
催して当たり前」「県民協は得をする」という権威主義的な大国的意識があっ
たからである。
結果的にはいろいろな条件をつけて共催することになったが、こういう例
もあるから、よく検討のうえ、共催・後援を決定すべきだろう。
同じことは「共催」「後援」の申し入れについてもいえる。今の4点に照ら
して曇りなく申し入れることである。
4 合同の研究会の開催。
あるテーマのもとに他のサークルといっしょに合同の研究会を開くといっ
た場合。夏の県民協集会は、その好例であろう。これはサークルをアッピール
し、会員も拡大でき、実務や研究をとおしてサークルの力もつく。まさに一石
3鳥の催しである。
5 支援活動。
サークルには浮き沈みがある。人が集まらない、サークルが成立しそうに
ないというような場合、支援活動をおこなう。体育のサークルが定例会に3人
しか集まらないというようになった。さっそく、他のサークルに呼びかけ、定
例会に出席してもらい、少しずつ、また盛り返していったことがあった。
5 会報や研究出版物の交換・献本。
サークルの会報や出版物を交換したり献本して、研究情報を輪をつなぐ活動。
ただし、会報や研究冊子・出版物の交換や贈呈を受けたら、受領の挨拶、
お礼の手紙を出すことを忘れてはならない。
とくに、他のサークルからの献本は会員に知らせること。会報があれば、
献本コーナーをもうけ、送付先・書名・著者名・発行所・定価など知らせる。
これは礼儀であるが、これを実行するサークルは少ない。
なお、会報などを事務的に定期交換している場合は、ハガキなどに一定書式
をつくっておいて、「書名」「日時」を書き込んで、送付先に受領の返事を出
すとよいだろう。
◆仲間とのつきあい方◆
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昔の教師は律義だったから、新刊の自著をサークルの教師に贈呈したもので
ある。わたしもずいぶん多くの研究者・教師から新刊の著作を贈呈された。た
いへんうれしく感激したことを覚えている。
わたしも近刊の自著や研究冊子を贈呈するが、めったにお礼の手紙をもらう
ことはない。この点では教師は無礼な人種といえよう。もらうことに慣れてい
て「当たり前のこと」とする習性が身についているからだろうか。それとも身
勝手なのだろうか。教師の非常識さについては、斎藤喜博・大西忠治氏も憤慨
していた。
ある若い教師に本を贈呈したことがある。ところが何の返事もない。そのう
ち、その教師の近刊の自著を送ってきた。すぐにお礼の返事を書いて出した。
すると、ドカッと、その本の宣伝チラシが何百枚も送られてきた。あちこちに
配布してくれというのだろう。身勝手なやり方だなとは思ったが、また、近刊
の自著を送った。何の返事もない。半年が過ぎて年賀状がきた。その片隅に
「本をありがとう」と書いてあった。半年も過ぎてお礼はいささか遅い。気持
ちがあるなら、もらったそのとき、すぐに礼状を出すべきだろう。
それができないのは、ひとつは、交わりの能力が欠けているからである。人
とのつきあい方がわからないのである。交わりの能力の衰退は子どもたちだけ
でなく、教師にも及んでいるのである。
ふたつは実務能力の欠如である。以前、近畿のある小学校の教師が、講演要
項を送ってきた。子どものノートを切り裂いたものに鉛筆でなぐり書きしてあ
った。
この教師は当時、新進気鋭の実践家として注目を集め、会の代表者も論文の
なかで高く評価していた。しかし、わたしは評価しなかった。眉唾ものだと見
ていた。実務能力のないものの実践は信用できないし、かならず潰れるからで
ある。案の定、この教師はすぐにくずれてしまった。
実務は人気のない無味乾燥な仕事のように思えるが、そうではない。強い人
間性の問われる仕事である。手紙一つ書くにも、読みやすく、失礼のないよう
に表記するという相手を思いやる気持ちが求められる。ものをもらったら、く
れた人の心がはかれるから、すぐに礼状を出すという実務が実行される。人に
たいするやさしさが実務を生むのである。実務能力のない人間は、だから、心
ない人なのである。
ということで、研究報告や著書の贈呈を受けたら、まずは礼状を出す、これ
が人間のマナーである。
(前略)「○○○」の本をいただき、ありがとうございまた。今日の教育状況
を切り開く、まさに時宜を得た著作だと思います。じっくりと読ませていただ
きます。また、多くの仲間にも紹介し普及したいと考えます。まずはお礼まで。
」
こんな骨子が儀礼的な礼状の見本だろう。内容は「お礼のことば」「本のねう
ちを一言」「この本で学習します」「普及します」というあらすじである。こ
れが儀礼の最低ラインで、多忙なら、これで充分である。
しかし、ほんとうの礼状は、相手にさらに良い仕事をしてほしいという願い
と励ましをこめた書状である。
次は、その見本である。
(前略)教育実践ノート109号、ありがとうございました。
時評「援助交際」がたいへん示唆に富んだ論文で感動しました。状況がよく
みえると共に、親の力がきめ手なんだというところが勇気をわかせるところで
す。そして、まさに、学校こそが子どもの心を揺さぶるところでなければなら
ないとの指摘は、今日、非常に重要なことです。「いじめられたらどうするか」
も楽しく読ませていただきました。
それにしても「教育実践ノート」シリーズは、そのままサークルのテキスト
になるという点で、とても素晴らしい冊子です。わたしのところでも使わせて
いただき、たいへん学べると好評です。無断で申しわけありません。今後とも
よろしくお願い致します。
きちんと読んでくれたということが伝わる礼状である。また、過分なほめこと
ばがあるが、この過分さが相手を励まし、もっと内容のある冊子をつくろうと
いうやる気を引出すのである。孤立しがちなサークル会員はほめ言葉に飢えて
もいるからである。だからだろうか。サークルの会員はサークルの会員からほ
められることに最大の喜びを感ずるものなのである。
会報や研究物や著作をもらったら受領した挨拶とお礼の言葉を送る。これは
常識である。 しかし、「勝手に送ってきて、なんだ。ほしくもないのに」と
いう場合は、返事を出さない。これが暗黙の拒否を意味する。研究報告や著作
の贈呈は、見せびらかしだととらえ、不快感を抱く人もいないことはないから
である。そういう人を知っている。
だから、送るほうも返事がなかったら、次から送らないことである。
◆耳からも学ぶ◆
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わたしたちのサークルでは、すぐれた実践記録を読んで学んだ。その読みの
なかで、他のサークルでは、まずやっていない学習をした。それは「耳でも学
ぶ」という方法である。 一九六三年、斎藤喜博氏が「教育の演出」という本
を出版した。そのなかで「島小の卒業式」の実践が紹介されている。わたした
ちはむさぼるように読んで感動した。
1 一年生が全員起立して「ピオネールは木を植える」を歌う。この歌がは
じまると各学級の旗を持っている子どもが起立して旗を立てる。
冒頭に、こんな一節があった。この「ピオネールは木を植える」は、旧ソ連
邦のショスタコヴィッチの作曲「オラトリオ『森の歌』」の第4曲である。ソ
ビエト政府の自然改造事業「植林計画」のためにつくられた曲である。
この記録には、しばしば曲名が登場する。
4 アコとシンバルと小だいこによる後奏が終わると、ピアノ(ます)に
よって、旗がもとの位置にもどる。
シューベルトの「ます」である。歌曲であるが、後、ピアノ5重奏曲にも転
用された音楽である。ピアノとあるから「ます」の主旋律を弾いたものと思わ
れる。
5 証書が渡される。証書を渡すとき弾かれるピアノ曲は、ベートーベン
「悲愴」第二楽章。
行事の台本には、「『ピオネールは木を植える』を歌う」というように、曲
名を書くのはよくあるが、背景音楽について、楽章まで指定する実践家は少な
いだろう。
斎藤喜博氏は、音楽が好きだったようである。たぶん、そこそこのクラシッ
ク・フアンでもあったかもしれない。そうでなければ、曲名・楽章までも指定
はできないだろう。
しかし、それだけではないと思った。この場面で、このような音楽をと、具
体的に記述したのは、そのとき、会場に流れる『声』と『音』、和音やリズム、
その感情、それらが織り成す雰囲気や高揚を伝えることで、実践の理念を主張
しようとしたのではなかったか。 とすれば、実際に、その音楽を聴きながら、
実践記録を読まなくてはならないのではないかと思った。
わたしがレコードが好きで、これらの曲の入ったCDを持っていたので、わ
が家に集まり、その音楽を聴きながら実践記録を読みなおした。やはり予想し
ていたとおりだった。臨場感をもってイメージが広がってきた。
それだけでなく、なぜ、ここで、一年生が歌うのか。参加者のなかの、最も
年下のものをセレモニーの最初のプレゼンターに起用するという演出で、それ
は、たとえば、サッカーの試合前、選手が低学年の小学生を同道して入場する
演出と同じ発想による。
さらに、なぜ、『ピオネールは木を植える』を歌うのかも理解できた。一年
生の愛らしい行進曲風の斉唱によって、卒業式全体のトーンを明るく前進的な
色調に決定しようとした選曲で、また、学級旗が立ち並ぶ会場にふさわしい歌
であることが理解できた。
「ます」は躍動感のある、清澄さと華やかさを秘めた曲で、この場面に斎藤喜
博氏が求めたかった場の感情が理解できる。次の「花束贈呈」に結ぶにふさわ
しい選曲であった。間と間をどうつなぐか、ここに音楽の力の見事な活用があ
った。
悲愴の第二楽章は、抒情的な曲だが細かい音符が続くところもあるので、証
書を渡すにふさわしい曲かどうかは疑問である。ゆったりしたフルートの曲が
ふさわしいように思えるが、これは斎藤喜博氏のロマン性が色濃く表出した趣
味性の強い選曲で、卒業証書にこめられた感情が伝わってくる。
実践記録を読むとき、「耳でも学ぶ」「耳からも学ぶ」ことで、実践家がこ
の実践に求めた理想の全体像がより理解できる。今、こうした学び方をしなく
なったのではないだろうか。
◆思想的潔癖さ◆
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サークルの実践報告のなかで、文化財をどのような場面でどう活用したかが
よく問題になる。たとえば、卒業式のなかで「大地讃頌」を歌ったというよう
にである。それがなぜ問題になるかというと、卒業式改革の成果とみるからで
ある。
古い卒業式の式歌といえば「仰げば尊し」「蛍の光」である。その式歌に変
わり「大地讃頌」を歌ったのだから、これはたいへんな改革である。だから、
実践家も「大地讃頌」の歌にこだわるのである。
すなわち、どの場面でどのような文化財を用いるか、そのことが、その実践
を評価するバロメーターになっているからである。
では、なぜ「大地讃頌」が卒業式改革実践に結びついた歌なのだろうか。ひ
とつは「母なる大地を愛せよ」という歌詞のよさである。
母なる大地のふところに われら人の子の喜びはある
大地を愛せよ 大地に生きる人の子ら その立つ土に感謝せよ
静かな大地を 大地をほめよ たたえよ土を
恩寵のゆたかな大地 われら人の子の 大地をほめよ
たたえよ土を 母なる大地を たたえよ ほめよ たたえよ 土を
母なる大地を ああ たたえよ大地を ああ
という歌詞で、ついている曲も3部混成の重厚な合唱である。
よい歌だから卒業する生徒が卒業式で歌いたいと選んだのである。生徒の要
求で卒業式に歌う歌を決定する、それが民主的な卒業式だからである。
そういう実践が重ねられて、いつしか「大地讃頌」を歌う卒業式は民主的な
卒業式をめざしているという評価が与えられるようになった。今日、かなり多
くの卒業式で歌われるようになった。
しかし、「大地讃頌」は、はたして民主的な卒業式にふさわしい歌であろう
か。そのことについて精査した例はない。わたしも精査検証を怠ってきた。
じつは、わたしの学校の卒業式・入学式、学年集会などの全校・学年行事で
「大地讃頌」を歌ったことはない。わたしの学校の長い合唱活動の歴史のなか
で、この曲が歌われたのは、三年生の学年合唱コンクールで、ある学級が一度
だけ自由曲に選んだときだけである。はっきりした理由はない。好まれなかっ
たというそれだけの理由である。曲が重く和声の進行が渋いということだった
かもしれない。
ところが、わたしがある本のなかで、この歌詞をとりあげようとしたら、編
集者から「この詩人は問題はないのか」と指摘された。精査を怠り、民主的な
卒業式に歌われているから間違いないだろうと思っていたことによる。
精査した結果、民主的な卒業式にはふさわしくない歌であり、ほかにかわる
ものがあれば、ふりかえ、この歌は歌わないようにしたらどうだろうかと思う
ようになった。
「大地讃頌」は一九六二年(昭和37年)、日本ビクターの委嘱によってつくら
れた「混成合唱とオーケストラのためのカンタータ『土の歌』」という作品の
終章、第7楽章の曲である。作曲は佐藤真氏、作詞は大木惇夫氏である。
全体の構成は、第1楽章から「農夫と土」「祖国の土」「死の灰」「もぐら
もち」「天地の怒り」「地上の祈り」と続き、終章が「大地讃頌」となってい
る。
第3楽章の「死の灰」では原爆問題を扱っている。「科学の恥辱よ、人智の
愚かさよ、ヒロシマの、また長崎の地下に泣く、いけにえの霊を偲べば」とあ
り、また、第6楽章「地上の祈り」には「ああ戦争の狂気を鎮めたまえ」とあ
るように、その歌詞に、思想的な親近感を抱きたくなるほどである。
しかし、この曲にはいくつかの問題があった。
第一は、「土の歌」のテーマである「土」は、その年の宮中の歌会始めの御
題からとられたものである。「土」は底辺に働く民衆のイメージが強いが、こ
こでは皇室の繁栄を支える大和の国土としての大地という発想があった。
第二は、大木惇夫という詩人の問題である。かれは戦争中、国家主義・軍国
主義の詩人として、その詩作活動によって、多くの若者を戦場に送った。吉本
がその著「文学者の戦争犯罪」のなかできびしく弾劾している。当時、多くの
詩人・歌人・作家が戦争に協力したが、大木惇夫は指導的役割を果たしたとい
うのである。
だが、戦争協力した作家の作品を用いないとしたら、北原白秋や西条八十も
斉藤茂吉の作品も扱えなくなる。戦争協力の有無で選別したら、ほとんどの文
化財が使えなくなる。 だから、その文学者の作品は使ってもいいのであるが、
そのさい、それなりのルールをつくって用いるようにしたい。
たとえば、つぎのようなルールである。
1 戦争協力そのものの作品は使わない。
2 戦争協力について自己批判している文学者の作品は使ってよい。
3 特別の場合、なるべくその文学者の作品は使わない。
4 他にふりかえるべき作品がない、代替えが見当たらない場合、使ってい
い。
というようにである。
このことから、民主的改革にとりくんでいる卒業式のようなハレの場では、
「大地讃頌」のような歌はあえて使わないことである。ほかに民主的卒業式た
らしめる歌がいくらでもある。そういう思想的潔癖さは、とくに、現今、求め
られているのではないだろうか。
その意味で、用いるべき文化財についての精査を怠ってはならないと自戒し
ている。サークルで実践分析するとき、ひとつの視点として認識しておきたい
ことである。
とはいえ、戦争中の文学者の戦争協力についての資料は少ない。
わたしの好きな俳人に西東三鬼がいる。代表作に「水枕がばりと寒い海があ
る」「算術の少年忍び泣けり夏」などがあり、国語の授業でもよくとりあげた。
しかし、松本清張氏がある小説のなかで「戦時中、新興俳句運動に参加した
俳人の動向をスパイして特高警察に密告していた俳人がいる。それが西東三鬼
だ」とあった。
それ以来、西東三鬼の俳句を授業でとりあげることをやめた。
このように、後になって、この作品の作者が戦争協力者だったと知ることが
ある。そのことを知らなかったことはけっして恥ではない。
問題は知った後、どうするかである。それがわれわれの実践課題であり、そ
れにかわるものをどう選ぶか、サークルでの知恵の出しどころである。