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  教育実践史を読む 4          00240
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  教師の学習            索引へ戻る 

  ●目次● 
    学級目標
    修身の授業記録
    算術のなかの無産教育
    修身科無産者教授教程
    教師の生活刻々と困窮す
    自己の才能に絶望する教師
    子どもたちの授業参加
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 ◆学級目標◆
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 先日、ある中学校で授業を参観した。教室正面の黒板の上に「協力」と描い
た花看板がきれいに飾られていた。他の教室を覗くと、それぞれに異なる学級
目標が装飾的に掲示されていた。教室をきれいに飾るという実践は、今、全国
的に、静かなブームとして広がっているようである。
 ところで、学級目標を教室正面に掲示するという実践は、いつごろからはじ
まったのだろうか。

 大正十一年「自由教育真義」(手塚岸衛)が出版された。著者の手塚岸衛は
千葉付属小学校の教師で、教育改造運動の一方の旗手として活躍した。この著
書に、学級目標のことが記述されている。

 十六 学級精神
 教師児童に現に共通する生の灼熱点を数語に約し、教室正面に掲げて学級精
神の標語と なす。学級精神とは学級の時代精神の謂いにして世上の級訓とは
趣を異にする。標語は 教師の選べるあり、児童の選べるあり。精神は或いは
絵画を以って象徴するとあり。而 して標語は必ずしも永久に固定せず、変更
することあり。

 学級目標、ここでは標語と表現しているが、それは教師と児童と共に生きる
灼熱点、時代精神の具現化だとしている。激しい思いのこめられた表現である。
あとの部分は今にも通ずることで、絵画で象徴するもよいなど、大いに参考に
なろう。
 ついで、各学級の学級目標が紹介されている。

  尋一ノ一  センセイニタヨラズ  
  尋一ノ二  ジブンノ力デスル
  尋二男   自分を自分に頼む    
  尋二女   何事も心から
  尋三男   自分でやって見ます       
尋三女   出来るだけは自分で
  尋四男   自分からそして力一ぱいに
  尋四女   内へ深く
  尋五男   己の力で己を磨く
  尋五女   尊い自分の力で進もう
  尋六男   何事も自分で始末し自分の力でとり入れよ
  尋六女   内展
  高一、三男 自重              
  高二男   舒巻如雲得自由
  高一、二女 あこがれ

 「高」とあるのは高校ではなく、高等科のことで、小学校六年生の上に高等
科がおかれ、1年生から3年生まであった。

 この標語を読むと、学級担任の顔が目に浮かぶようである。それぞれに独自
な標語である。「あこがれ」というような文学少女好みの標語もあれば、「舒
巻如雲得自由」というような漢文調の難しい表現もある。「舒巻(じょかん)」
とは広げること、書物を開げること。学習すると、流れる雲のように自由を得
ることができるという意味で、学問することの大切を述べている。
 これらの標語に一貫して流れている思想は自主自立である。上級生になると、
自省を求める標語がめだつが、自省もまた、自主自立にもとづく精神活動であ
る。
 ここに、大正デモクラシーという時代精神が色濃く映しだされていることが
わかる。

 それぞれの学校で、このように学級目標を一覧に集約してみると、時代精神
が読みとれるかもしれない。もし読みとれなければ、時代に生きていない教師
たちということになろうか。



 ◆「修身」の授業記録◆
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 大正時代、どんな授業をしていたのだろうか。その記録が残っている。出典
は大正十一年三月に刊行された『自由教育真義』(手塚岸衛)である。
 ここに紹介するのは、小学校二年生の修身の授業記録である。修身というと、
暗いイメージがあるが、ここでは子どもたちの自発的な学習が展開されている。
「実地授業をそのまま筆記したものを実際例として掲げる」とある。当時の実
践記録の書き方は「書き言葉」によって書かれていた。実際に子どもたちの生
の言葉なのか、そのへんは割引いたとしても、この授業にみられる子どもたち
の自治的・知的能力は驚くべきものがある。これは、大正デモクラシーのなか
ですすめられた自由教育の成果である。付属小学校のかなり勉強のできる子ど
もたちの授業記録だが、現在の小学校二年生の学力と比較しながら読むといい
だろう。
 全文の引用は無理なので、導入とまとめの部分だけ、現代語になおして紹介
する。

 尋常二年生修身 教材「くふうせよ」

児童 先生、この時間も工夫せよの修身ですね。
教師 そうです。
児童 今日はね。私たちの工夫したものについて、お話をさせてください。
教師 そうしたい方が他にもありますか。
  児童の挙手大部分。
児童 先生、私はこしらえたものを持ってきました。
児童 私も持ってきました。
教師 それならお持ちになった方はこちらへ出してください。まあ、よく出来
たことね。 これでこそ、この前に「十吉」のお話をしたかいがあるね。

  と教師はすこぶる満足の体で、一々児童の持ちきたる工夫製作物を受取っ
て、教室の一隅にある観察台上に陳列した。観察台上には、テーブルと椅
子(厚紙細工)、箪笥(マッチの空箱を利用して作ったもの)、乳母車
(玩具の破れたものを組合せて作ったもの)人形(紙細工)、棹秤、自動
車、写真ばさみ、鉛筆入、時計、箱等の厚紙細工、切抜細工、折り紙細工
など二十種ばかり、かれらの手によって作られた品々が並  んだ。

教師 ではどういうようにいたしましょうか。ここに並べた品物について、お
話をしても らいましょうか。それとも品物は持ってきていないが、いろい
ろ工夫してこしらえたことのあるお話をしてもらうことにいたしましょうか。
児童 どちらでもよいと思いますが、せっかく工夫したものを、今日お持ちに
なった方々があるのですから、そのお話を先に伺って、それからお持ちに
ならない方のお話を伺うことにしてはどうでしょうか。
児童 わたしもそれがよいと思います。

  私も私もと多数の児童賛意を表す。

児童 ちょっとお待ちください。私はこう思います。それもけっこうですが、
皆さんのお話を聴かない前に、その品々を観せていただくことにしてはどう
でしょうか。めいめいでその品物を観て、どこが工夫をしたところであ る
か。また、どこが自分の作ったことのあるものなどと比べて違っているか。
また、どこをどうなおしてみたいか。そこを十分に見抜いて、自分の考をき
めておいて、それからだんだんとお話を伺ったら、たいへんによくわかると
思いますが、皆さんのお考えはいかがですか。
 
 全児童「その方がよいと思います」と前の言を取り消して賛成した。

教師 今、Gさんのいったことは私も大賛成です。修身のお稽古でも読方のお
稽古でも算 術のお稽古でも、みなその心がけで進んでいくということが大
事です。はじめから人に 頼って教わろう聴こうという考えと、これに比べ
たら、どんなにりっぱな心がけだがわ かりません。
 
 と教師はその自覚的態度にたいして賞賛を与えた。
     (中略)

児童 今のお話でよくわかりましたが、Hさんに質問いたします。あなたの作
った「テーブルと椅子」で工夫をめぐらしたところは、脚がぐらぐらしない
ようにというところだ けですか。
児童 さきほど言い落しましたが、脚の作り方とその貼付け方もずいぶん考え
ました。
児童 さきほど観せて項きましたときには、私もその三つが工夫したところで
はないかと 考えました。
 
 私も「そのところだと思いました」と他の児童も語り合った。

児童 また私はHさんの工夫には感心しました。じつは私も「テーブルや椅子」
をこしらえたことがありますが、よくできませんでした。私もHさんのよう
にすれば、脚は動かなくてよかったにと、つくづく考えました。

  と、自己の工夫の不十分を反省するものもあった。

児童 Hさん、お伺いいたします。皆さんがおっしゃったようにたいへんによ
 くできていますが、あとから考えてみて、ここはこうもしてみたいと思うと
 ころはありませんか。もしありましたらお話してください。
児童 あ、そうそう。むつかしそうだから、私にはできるかどうか分りません
 が、テーブルの引出しをつけてみたいと思います。こんど作るときには考え
 てみましょう。
 
 他の児童もさらに工夫すべきはそこだと、それぞれ観察のさい、気づいた要
 点を発表した。

教師 もう時間がおしまいになりますが、何か問題がありませんか。
児童 先生。この次の手工の時間には、いろいろの物を工夫させてください。
教師 他にもそうしていただきたい方がありますか。

  児童全部賛成。

教師 それではそうしましょう。

  児童は嬉々として満足の体。

児童 先生、私たちの工夫したものの展覧会を開いてください。
教師 皆さんがお開きなさい。先生は大賛成です。先生も何か一つ二つ工夫し
 て出品いたしましょうか。
 
 笑顔をもって全児童を眺めながらその実行を奨励した。児童は手をうって喜
 ぶ。

教師 それでは今日はただ展覧会を開くということだけをきめて、細かいこと
 は皆さん方が相談してきめたうえで、先生のところへ言ってきなさい。

 省略したが、途中、「親に手伝って作ったのか」などという鋭い質問も出て
いた。自発的学習の典型例である。なお、この授業記録のあとに、高等科の生
徒の進路をめぐる話合い記録が掲載されている。



 ◆算術のなかの無産教育◆
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 日本の国がだんだんと軍国主義化するなか、日本の教師は、どのように、こ
の流れと戦ったのだろうか。
 わたしの小学校1.2生のときの担任だった丸山先生は、若いころ、奈良の
自由教育の影響を受けた教育実践にとりくんでいたが、時局がきびしくなるに
つれて、その影響を断ち切ったという。
 恩師を囲んだ同窓会の席上、丸山先生は、当時をふりかえって「ぼくは弱く
てだらしなくて卑怯だったからな」と自嘲げに述懐していた。戦前の教師たち
は、戦後になって、当時の自分をふりかえって、みんな、忸怩たる思いにから
れていたようである。
 では、当時、どんなプロレタリア教育運動の実践があったのか、みてみよう。
 これは1930年代の長野県の石澤泰治先生の実践である。石澤先生は当局のい
う「左傾教師」で、民主教育実践史によれば、これは「反戦平和の無産教育実
践」とある。

 ブルジョア教育学児童教育に関する研究は非常に進歩しているので、吾々は
その教授方法を利用する。今日の低学年の算術教育は吾々の時代のそれのよう
に、1+2=3の暗誦的機械的注入主義的教育をしない。一切の算術を児童の
生活の基盤の上に発展せしむようにしているのである。
 たとえば、「二基数を加えて二位数になる加法を知らしむる」というところ
をとれば、「山本君は1本8銭の筆と5銭の消しゴムを1つ買いました。みん
なでいくらですか?」「8銭+5銭=13銭」と、これを考究させるのである。
抽象すると8+5=13である。これゆえに、この算術科は臨機応変自由に階級
性を取り入れることができる。
 教師「宮代さんの自動車はいくらか知っていますか」 
   *宮代は地域の地主で資本家。 
 児童「100円」
 児2「30円」
 児3「500円」
 いろいろ出る。実際は2000円である。児童はびっくりしてしまう。
 教師「2000円は1がいくつ集まったものですか」
 児童「2000です」
 教師「では、1円でどんなものが買えますか」
 児童「本、カバン、エンピツ、ゲタ等々」
 教師「2000円で幾人分買えますか」
 児童「2000人分、買えます」
 教師「2000人というと、この学校の生徒の何倍ですか」と発展させる。
 教師「宮代さんの砂利場で働いている人はいくら稼ぎますか」
 児1「先生。オレンとこのお父ちゃんは今日は15銭だぜ」
 児2「昨日は5銭だからやめた」等々。
 教師「それっぽっちしかくれないのならもっとくれるようにいったらどうだ」
 児童「宮代さんはケチだからだめだ」
 教師「そんなケチな人はいい人か、悪い人か」
 児童「悪いや、みんなでやっつけるんだ」
 わたしは極端に宮代という前は出さなかったが、こうした具合にして算術科
を利用したのである。

 これは算術の勉強とはいえないようだが、悪徳資本家を例に算術の例題を作
り、子どもたちにプロレタリア教育をしている。この授業が当局に知れれば、
逮捕・弾圧され、馘首され、牢獄にほうりこまれることになるが、その網をか
いくぐり、自らの生命をかけて、子どもたちに理想を説いた。
 今からみると、少しく露骨なプロレタリア教育にみえるが、その露骨さのな
かに、やむにやまれぬ主義者たちの切羽詰まった焦りがうかがえる。ちょうど、
満州事変から日中戦争へと入っていこうとする時代である。
 軍国化する時代の波に抵抗し、反戦平和の旗を掲げ、貧乏な子どもたちに共
感して、少しでも住みやすい世の中をつくろうとする、理想に燃えた教師たち
がいたのである。



 ◆修身科無産者教授教程◆
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 満州事変のあと、国がますます戦争への道をひた走るなか、その流れに抵抗
する「反戦平和」の旗を掲げた一群の教師たちがいた。
 その教師たちは、国家主義・軍国主義の思想を育てる中核の教科「修身」の
取り扱いについて方針を立てた。「修身科無産者教授教程」という方針で、作
成日は1934年(昭和9年)3月という日付が残っている。作成したのは、
全協日本一般使用人組合教育労働部長野県支部である。
 前文に「われわれの教科書にたいする根本態度は、教科書絶対排撃である」
とはっきり断定している。
 しかし、現実には教科書を使って授業せざるを得ない。そこで、換骨奪胎を
考えた。すなわち、修身の教科書は児童の机上に開き、その上で、積極的批判
的に取り扱うことによって、その課のもつ影響力を幾分なりとも弱めよとした。
そうすれば、その課を全然教えなかったという疑惑を与えないですむと考えた。
 その方法とは、たとえば、尋常小学校3年生の修身「仕事に励む」教材「二
宮金次郎」の授業では、次の観点で扱うとある。

 金次郎の幼年時代とわれわれ。なぜ、こんな小さいときから労働者・農民の
子弟は苦しまなくてはならないのか。児童はいかにあるがよいか。勉強、運動、
休息、遊戯、適度の労働。
 幸福な児童の国と不幸な児童の国がある。仕事に励めといっても、12歳ころ
の児童に、この労働(*金次郎の労働)は過酷ではないか。
 過度に労働する階級、その悲惨な生活、何故。
 全然労働しない階級、その豪奢な生活、何故。
 仕事に励めはだれに向かっていうべきか。
 搾取関係を倒さないかぎり、いくら仕事に励んでも、われわれの生活は楽に
ならない。ただ、地主、ブルたち(ブルジョワ)を富ますのみ。

 金次郎の教材はこう扱うのだというのである。
「孝行」の単元では、「親のために、親を苦しめている真の原因、敵と闘争す
ることが、真の孝行なること」と書いてある。また、「勇気」の単元では「労
働者、農民のために徹底的に戦う者こそ真の勇者。英雄であること。地主、資
本家およびその使用人の官憲と戦った人だ」とある。官憲は資本家の使用人だ
としている。官憲とは官吏と警察官や政府・役所のことで、これは今も変わら
ない。
「堪忍」の単元では「敵の搾取、弾圧に屈し、それにかんにんすることは決し
て真のかんにんではない。敗北であり、不正義であること。一人のことと思っ
て我慢してはならない」とある。
「師を敬え」の単元では「強制する教師にたいする奴隷的、盲従的な態度、観
念の打破。教師にたいする批判的態度の強調。よい先生、悪い先生を具体的に。
いかなる子どもがよい子どもか。よい先生のいうことを聞いて、労働者、農民
のために徹底敵に戦う者」などとある。
 メモのような記述だが、たいへんに戦闘的で、イデオロギッシュで、これが
抵抗運動の実践スタイルだったようである。

 ところで、こういう教材批判は、現在、おこなわれているだろうか。教科書
検定に反対はしているが、現につくられた教科書を取り上げ、そこはこう教え
るべきだ、というような批判的取り扱いの研究はすすんでいるとはいえない。
 しかし、今後、教材統制が強まるだろうなか、こうした批判的取り扱いの手
法を学ぶ必要がある。



 ◆教師の生活刻々と困窮す◆
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 一九二九年、世界大恐慌はわが国にも波及し、都市の巷には失業者があふれ、
農村は不景気のあおりで作物の値が下落し、困窮のあまり娘の身売りという事
態さえおこるようになった。
 子どもたちは学校に通っていたが、昼食時になると、教室から姿を消す子ど
もがふえ出した。それは欠食児童で、農村でも、都市でもその数が増え、深刻
化の様相を呈するようになった。
 政府は社会不安につながるとして、一九三二年、学校給食への奨励費を支出
したりした。 一方、教師の生活も刻々と困窮する。
 地方自治体は不況のため税収はなく、財政窮乏も深刻化し、そこで、地方財
政の多くを占める教員給与の削減による切り抜け策が登場したからである。ま
ず、教員への月給の遅配、そして欠配、やがて、寄付、さらに不払いの措置な
どとられるようになった。
 一九三一年には教員の俸給未払い五八〇町村、寄付は六〇〇町村という状況
が出現した。ここでいう寄付とは、俸給を支払わないで、その分を自治体に寄
付したことにして帳消しにするやり方で、身勝手な強制寄付であった。
 この恐惶により教員の馘首異動は全国的に二万五千人に上ったといわれてい
る。
 その例を福岡県と秋田県にみてみよう。当時の「教育週報」による。

  恐惶来の福岡県教育界 八百余名を休職  (一九三一年一月三十一日)

 福岡県の町村教育費節減案にたいして、県郡教育会が断然反対の気勢をあげ
たことは既報のとおりであるが、これにたいして、町村長会では町村長に与え
られている権限内で、 1 学級整理による教員四百名の整理
 2 12学級以下の小学校校長に学級を担当せしめ補助教員三三十名の整理
 3 専科教員百名の整理
 計八百三十名の整理となり、これらは休職として一か年間3分の1の休職給
を支給する意向とのこと。
 毎年の例によると、学級増加が百、教員の退職希望者は百名と見積もり、こ
の二百名を除いても、なお六百三十名の整理で、その上、福岡・小倉男子師範、
福岡女子師範の新卒業生三百八十名の余地をつくらねばならぬので、結局一千
十名の整理をしなければならぬことになった。これは現在福岡県内小学校教員
総数の1割3分にあたる非常な整理で、県当局が、どの程度までこれを防ぎ得
るか、一般は恐怖の目をもって注目している。

  秋田県の例            (一九三一年四月十八日)

 秋田県では県下三百七十の小学校中、農村不況で教員の俸給不払い、延払、
分払の傾向を示すもの過半数、これがため教員は非常な生活難に陥る。
 北秋田郡では教員に俸給の代わりに村税滞納督促状をわたしたため、教員は
授業そっちのけで滞納整理にかけづり回って、やっと家族を養っているという
ような教育上、由々しき事態を引き起こしている。(「教育週報」)

 それにしてもひどい。給料を払わないから税金が払えない。すると、滞納督
促状をわたして給料と棒引きするというのである。
 秋田県の場合、このあとどうなったかというと、県の教育互助会が信託会社
に借金して、生活困窮の教師を救ったとある。
 教師はこんな時代を経てきたのである。
 現在、地方財政はどこも赤字である。その赤字解消に公務員の給与やボーナ
スの一部カットがみられるが、しかし、こんなひどい時代にはならないとは断
言できないだろう。



 ◆自己の才能に絶望する教師◆
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 ★1930年代の実践記録★

 こんな記録が残っている。

 一、はしがき
 1年前、初心者らしい計画と希望で、はじめて子どもたちの前に立った私は、
まもなく裏切られたような悲しみと困惑で、真っ暗な気持ちにされたのであっ
た。
「先生、××君が僕の答えをみています」
と、算術の練習ノートを隣同士でありながら、仇敵のように隠蔽しあう子ども
たち。摘発された子どもの真っ赤に恥じた顔。
 2,3日、連続欠席の子どもがあるので、付近の児童に事情をたずねても、
めったに知っていたことがない。たまに知っているかと思うと、「○○君は家
ではいつも遊んでいるんです」と、級友の不利を申し出て恬然としている。
 彼等が教師を恐れることは驚くばかりで、教師の前ではいかなる事実を語ろ
うせず、萎縮し、沈黙の抗議で答える習慣をもっている。
 しかも、級長と副級長は毎時々々、全員を整列さすに声をからし、巡査のよ
うに振る舞って、児童大衆と対立するにいたっている。もっともいけないのは、
筋肉労働にたいする嫌悪と無能で、当番逃げなどというものが流行しているし、
学級園の手入れ一つ満足にできない。

 こんな書き出しではじまる。1935年に発表された松永健哉の「児童自治に基
く学級経営」と題する論文で、子どもの実態から書きはじめている。今日の教
育実践記録のスタイルと同じだが、この時代に原形ができあがっていたのであ
る。
 1930年代は、学級を母体とした地域生活教育の実践がさかんにおこなわれた。
松永先生もその一翼をになう実践家であった。
 続けてこうある。

 私という人間が日毎に精魂を減らし、頭が馬鹿になりそうなのである。これ
ではいけないと思い、捲土重来の意気込みで自治会など試みてみても、子ども
たちは不感症か何ぞのように応じてこない。こうして、悲しみと敗北のなかに、
私はややもすると、子どもたちを罵るような決定論者の気持ちに追いやられ、
教育者としての自己の才能に絶望を感ずるという状態にあった。

 今から65年も前に、こんな状況があった。歴史は繰り返すのである。

 ★子どもたちをみつめなおす★

 こうした絶望のなか、松永先生はどうしたか。もう一度、子どもたちをみつ
めなおすのである。

 このころ、私はある一群の子どもたちに注意を引かれた。困惑せる私に同情
の眼を向け、私の言葉を恥ずかしいほど素直に受けて、細々と手助けするこの
子どもたちの存在に、私は勇気づけられ、学級立直しの仕事にも、彼等が思い
がけぬ手掛かりとなった。
 半年で、その学年を終わり、引き続き第5学年へと持ち上がりの担任となっ
たので、わたしはやや落ち着いて、学級自治会の企てに進ことができた。

 松永先生は、絶望的な状況に陥ったが、そこで、子どもたちをみつめなおし
たことから、わずかな光を見出し、学級を立て直すことに成功する。
 このあと、松永先生は、その経験を元に、学級自治活動の一つの典型をつく
りだす。
 なかなかの力量である。
 というのは、うまくいっていない否定的情勢のなかでは、肯定的な前進した
部分を発見し、うまくいっているときには、危険な徴候に警戒しはじめること
ができるのがリーダーとしての教師の力量だからである。
 指導不成立というような否定的状況になったとき、そのなかから、わずかな
積極的な意欲や前進的な力を発見できのは、この力量があったからである。暗
闇のなかに、光を発見する能力といってよいだろう。
 そういう教師の力量は、どう育てるのか。
 つねに子どもの実態に立って教育することによって育てられる。松永先生も、
論文のはじめに「学級の実情」から書きだしている。
 教育は子ども抜きには成立しないのだから、今、そこに、どんな子どもがい
るのかをみて、そこから教育を構想しなくてはならないのである。そういうた
しかな態度を己に育てることである。
 この実践的態度は、すでに、60年以上も前から確立していたのである。



 ◆子どもたちの授業参加◆
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 ★ダルトン・プランの実践★

 1920年ごろ(大正時代)ダルトン・プランが急速に普及した。アメリカの女
流教育者、H・パーカーストによって創案された教育プランで、子どもたちを
自主的な学習主体に育てようという教育論である。
 当時、欧米教育を視察した柳沢成太郎・長田新らによってもたらされた。日
本では成城学園が拠点校になった。1924年、パーカーストが来日し、毎日新聞
の後援を得て、全国を講演行脚することで、ダルトン・プランは爆発的に普及
した。時代の潮流であった児童中心主義思想とマッチしたからだろう。
 このダルトン・プランを取り入れた学校の実践記録が残っている。そのなか
で、面白いと思ったのは、壱岐の盈科小学校の藤井利亀雄先生の実践で、ダル
トン・プランによる授業が一段落したところで、子どもたちに感想を書かせて
いる。

 <ダルトン教育にたいする児童の感想>

 この方法を可とするもの10人中8人。否とするもの2人。否は劣等児に多い。
  1 自由に研究ができる。
  2 頭がよく働く。
  3 責任感が強くなる。
  4 進度表によって競争心が起こる。
  5 参考書があるために趣味ある研究ができる。
  6 共同研究の便を得る。
  7 うんと思考力を要するようになった。
  8 気にいった学科から早くやれる。
  9 研究に興味が乗ってあきない。
  10 疲れるということがあまり感じない。
  11 勉強するに、計画が立ってたいへん気の利いた仕事ができる。
  12 空いた解きは体操深呼吸等やり、気分の転換をはかれる。

 と評判がよい。一方、要望も出ている。

  1 学科の全部をこの教育法でやってもらいたい。
  2 もっと教室が広ければ、よほど都合がよい。
  3 細目があまり窮屈なほど小別してある。もっと私たちに工夫させても
    らいたい。 
  4 実業室に尋常1年生から、高等までの教科書が欲しい。

 批判もある。

  1 参観の先生が来ぬようにしてもらいたい。
  2 疲れたから遊びたくとも遊ぶ気がせぬ。
  3 机が狭くて、こまります。

 ★児童の意見を尊重して指導案も作成★

 藤井先生は、このあとに「備考」として、こう述べている。
「ダルトン案については、児童の意見を聴取するということはたいへん必要な
ことに属する。指導案作成のごとき、その他においても、児童の意見を尊重し
て決して無視してはならぬ」(「教育問題研究52号、1924年7月)
 授業を子どもたちといっしょにつくるという思想は、すでに、この時代に醸
成された。自主学習の主体を育てるということは、子どもが、自分にはどのよ
うな学習がふさわしいのかを検討できる力を育てるということでもあった。こ
こに、授業への子どもたちの参加の基本原理がある。
 ひるがえって、今日はどうだろうか。教師が自らの授業について、子どもた
ちの感想・意見を求めることなど、あるだろうか。

 ★ダルトン・プランのその後★

 ところで、ダルトン・プランは意外な結末を迎える。その流行は一時的なも
ので、あっというまにしぼんでしまう。当時の教師に、自主性を重んじる教育
を消化する力がなかったからである。
 それは、政治・社会状況が「自治」とはあい入れない状況にあったからだ。
教える教師に「自治」の概念の稀薄なところで、子どもたちの「自主」の花を
咲かせることは困難だったからである。
 しかし、皮肉なことに、ダルトン・プランは、海軍の士官を教育する兵学校
で採用されることになった。エリートには、この教育法が最適とみたからであ
ろう。
 さらに、ダルトン・プランは覆流水となって、戦後の民主教育に引き継がれ
ることになる。たとえば、今日、よくみられ「子どもたちがつける先生の通信
簿」の実践は、この藤井先生たちのとりくみが祖型になっている。